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水俣市茂道の歴史的形成過程と水俣病発生前後の住民の生活



グループ名 研究成果発表会配布資料[pdf]
代表者氏名 永野 いつ香 さん
URL
助成金額 25万円

茂道漁港。昭和30年代には4網元(イワシ網)と、個人操業者(エビ、アジ、太刀魚、ボラ等)がいた

茂道沖は、水俣市漁協による漁獲自主規制(昭和32年〜39年)と熊本県による仕切り網(昭和49 年〜平成9年)の区域外だったこともあり、住民は魚介類を食べ続けた

「ビナ」(小さな巻き貝)。水俣病発生以前はバケツ一杯とれ、日常的に食べていた

昭和27年頃の茂道船着き場と新船(撮影者不明・茂道住民から提供)

成果発表会のスライドから。住民からは生活の様子も含めて聞き取っている

研究の概要

2016年12月の助成申込書から
 1956(昭和31)年に水俣病が公式確認され60年が経過した。チッソが流した有機水銀は不知火海一帯を汚染し、被害者は20余万人にのぼるとも言われている。しかしながら、国・熊本県による住民への健康調査および全容解明のための調査は、これまで一度も行なわれていない。 本研究では、水俣病の被害実態を正確に把握するため、水俣病多発地区の中でも戦争と公害に翻弄された歴史を持つ「茂道」地区に限定し、住民からの「聞き書き」を中心とした長期滞在型の聞き取り調査を行なう。聞き取り調査は、2004(平成16)年から継続して行っており、これまで30名の住民に協力していただいている。  今回は、「水俣市茂道の歴史的形成過程と水俣病発生前後の住民の生活」を明らかにするために、水俣病認定患者夫婦から、戦前から昭和30年代前後の茂道集落全体の生活の様子と個人の生活史を聞き取る。また、第21海軍航空廠袋補給工場跡地の元住人4名から生活の様子と水俣病発生時の状況について聞き取りを行ない、これまでクローズアップされてこなかった戦争と水俣病の関係についても解き明かす。  茂道の歴史を知る古老たちが生きている間に、日常生活により細かく人間の襞にまで立ち入ることのできる聞き取り調査を行ない記録することが、国・熊本県・チッソの加害責任を問う歴史の検証につながると考える。水俣病事件の検証を行うことは、新たに他の地域・種類の公害・事件・事故などが起こった際、補償問題を考える上で大きな意義を持つ。

中間報告

2017年10月の中間報告から
 1956(昭和31)年の水俣病公式確認以降、国・熊本県による住民への健康調査および全容解明のための調査は行なわれていません。当時を知る方がご存命のうちに、水俣病事件の記憶を記録する必要性を感じています。  本研究では水俣病多発地区の一つで、戦争と公害に翻弄された歴史を持つ漁村である「茂道(もどう)」を対象として聞き取り調査を行っています。今回は、元漁師の水俣病認定患者夫婦と、元第21海軍航空廠袋補給工場跡地の住民から「戦前〜昭和30年代の茂道の生活状況」と「個人の生活史」についてお話を伺っています。  まず、前田重雄『水俣地図』(1960)と住民の記憶を手がかりに世帯ごとの家系図を作り、おおよその世帯数と人口を把握した上で、インフラ・商店・冠婚葬祭・組の運営方法・大山神社・祭りについて伺いました。次に「網元・網子関係」「個人操業者」「漁業の変遷(明治・大正・昭和の魚種、漁法、漁場)」「非漁業者の職業」を教わり漁村の特性を明らかにしました。  現在は「海草・魚介類・猫・豚の異変(いつ、どこで、何がの一覧表作成)」「流産・死産」「水俣病の発生状況」「転職」について尋ねています。昭和20年代から原因不明で亡くなる人や海難事故で亡くなる人が現れ、昭和30年代になると流産・死産を経験する女性が増えました。漁業だけで生計が立てられず、土木作業や出稼ぎをしながら、子育てや体調を崩した家族の介護と、家庭の中は大変な状況でした。  そうした1つ1つの出来事を水俣病の「被害」ととらえ丁寧に記録することは、国・熊本県・チッソの加害責任を問う歴史の検証につながるとの思いで今後も聞き取り調査を続けていきます。

結果・成果

完了報告・研究成果発表会資料より
 1956年5月1日に水俣病が公式に確認されてから62年を迎えました。当時、20代だった方は80代になりました。水俣病の経験を後世に残すための時間は限られています。一方で、国・熊本県による健康調査や全容解明のための調査は、これまで行われていません。  本研究では、水俣病患者が多発した「茂道」という漁村で聞き取り調査を行いました。今回は、元漁師のご夫妻と、元・第21海軍航空廠袋補給工場跡地の住民から、「戦前から昭和30年代の茂道の生活状況」と「個人の生活史」について話を伺いました。  「水俣地図(1960)」と住民の証言から、昭和30年代半ばには少なくとも117世帯が住んでいたことがわかりました。家系図と、選挙人名簿を照らし合わせて人口を確認する予定です。昭和7年から流し続けた水銀は住民の生活に深刻な影響を及ぼしました。昭和20 年代から原因不明で亡くなる人や海難事故で亡くなる人が現れました。昭和20年代後半から、飼い猫や養豚が死に、昭和31〜32年には、確認できただけ で幼児5名が亡くなりました。昭和30 年代になると流産・死産を経験する女性が増えました。いくつもの命が消え、多くの涙が流れました。昭和40年代以降については、引き続き調査を行う予定です。  今回、伺うことのできた話は、「自分の子どもにも話したことはなかっです」という内容が多かったです。特に、子どもの死や流産、死産など思い出すだけでつらく悲しい出来事です。それでも話をしてくださったのは、時が経ち、当時を生きた同年代が次々と亡くなり風化していくことを危惧したからだと思います。ある方は、「経験した者が語らんと、誰が語りますか。経験したことを、次の世代に知らせる義務が私たちにはあるとです。私のことを書いて皆さんに知らせてください」と語ってくださいました。住民が経験して語ってくれた、ひとつひとつの話は水俣病の教訓であり、これらを集めて検証することが話を聞いた者の役割だろうと考えています。  国・熊本県・加害企業チッソが36年間流し続けたメチル水銀による影響。住民が語った水俣病の記憶を記録することが歴史の検証につながると考えます。調査で収集した証言や写真などの成果は、書籍化して公開していく予定です。

その他/備考


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