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2010年7月


高木基金にご支援、ご協力をいただいているみなさまへ

高木仁三郎さん没後10年を迎えるにあたって
高木基金へのご意見、ご批判、ご提案などをお聞かせください。

高木仁三郎市民科学基金
代表理事 河合 弘之

2000年12月10日、日比谷公会堂で開催された「高木仁三郎さんを偲ぶ会」で高木基金の設立を発表し、みなさんへのご支援を呼びかけてから、早いもので10年になろうとしています。この間、みなさまには多大なご支援、ご協力をいただき、心から御礼を申し上げます。この10年の節目にあたり、あらためてみなさまに、高木基金へのご意見、ご批判、ご提案などをいただきたいと思います。

高木基金の立ち上げ当初の呼びかけ文に、私は、次のように書きました。
「高木さんが亡くなったことによる損失の大きさは計り知れないものがあります。しかし、残された私たちには、いつまでも嘆き悲しんでいることは許されません。高木さんの掲げた、この高い志と、業績を引き継ぎ、発展させなければなりません。」

この言葉どおり、高木仁三郎さんの存在は、私たちにとって、本当に大きなものでした。そして高木さんの「遺言」である「高木基金の構想と我が意向」に基づいて、私たちは、高木基金の設立に全力を注ぎました。「偲ぶ会」の当日、私は、日比谷公会堂で、みなさんに高木基金への入会を呼びかけました。その日に寄せられた多額のお香典やカンパを大きなバックに詰めて事務所に持ち帰り、夜遅くまでかかって、お金を数え、あらめてみなさんからの期待の大きさと責任の重さに、身の引き締まる思いがしたことが、昨日のことのように思い起こされます。

その後、助成の募集要項を作成し、募集を開始するまでにも様々な議論がありましたが、選考委員をはじめ、多くの方にご協力をいただき、第一回の助成先を決定したのが、2002年3月でした。
2003年には、助成先から成果報告が提出され、成果発表会を行いました。翌年には、「高木基金助成報告集vol.1(2004)」を発行し、ようやく募集、選考から、その後の成果発表へのサイクルが確立して来ました。
その当時は、まだ、年度ごとの収入では、助成金の原資を確保するのがやっとの状態でしたので、2002年度から2005年度までの決算では、百万円単位の赤字を計上しつつも、設立時からの基金を取り崩しながら、毎年1,000万円規模の助成予算を維持しました。
収入の基盤が整ってきた2006年度には、認定NPOに承認され、この年から、年間の収支が均衡するようになってきました。

高木仁三郎さんが残してくださった遺産は、約3,000万円でした、その後に、みなさまからお寄せいただいたご支援は、累計で、1億6,500万円にもなりました。これをもとに、これまで助成金や委託研究費として9,300万円余りを支出してきました。また、高木基金では、選考過程への市民の参加や助成の成果を市民に還元することを重要視し、助成選考や成果発表、ニュースレターの発行費用や管理費などにも、約7,300万円を要しましたが、おかげさまで、現在も仁三郎さんの遺産と同額の基金を維持したまま、10年の節目を迎えることができました。
今回、あらためて仁三郎さんの「我が意向」を読み返しましたが、一般の方からのご支援を原資として、市民科学を目指す個人やNPOなどを助成するという仕組みは、軌道に乗せることができました。この点では、仁三郎さんから託された想いを、多くのみなさんのご支援、ご協力により、高木基金というかたちにすることはできたと思います。
市民がお金を出して、市民のための科学を目指す人や団体を選び、その人や団体が、そのお金によって研修や研究を行い、その成果を発表し、その成果に感動した市民が再びお金を出して基金を支えるという良い循環が高木基金の基本理念です。このような基金は、他に類を見ません。「運動体としての基金」が私たちの目指すところであり、それはある程度実現出来ています。

しかし一方で、あらためて原点に立ち返ってみたとき、本来、高木基金が目指すべきこと、期待されてきたことに、どれだけ近づけたのか、という点では自信がありません。
高木仁三郎さんを失った私たちが、彼に続くような市民科学者を発掘し、応援することができたのか、言い換えれば、高木仁三郎二世というような人を生み出せたのか。また、仁三郎さんが目指した市民科学を、様々な問題の現場で実践したり、前進させたりすることができたのか。
私たちは、この10年の節目に、この点こそを振り返り、再評価するなかで、今後の高木基金の進むべき方向性を考えていかなければならないのだと思います。

そのためには、これまでの助成の仕組みを大胆に見直すことも必要なのかもしれません。また、この機会にこそ、原点に立ち返り、柔軟な発想で、今後の方向性を考え直すべきなのだと思っております。ぜひ、みなさまには、忌憚のないご意見をいただきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

以 上




  みなさまからのご意見、ご批判、ご提案などは、8月20日(金)までに
  takagi.kikin@gmail.com あてにメールでお送りください。
  (通常のメールアドレスとは異なりますのでご注意ください。また、
   文字数は、最大でも1,200字程度としていただけると助かります。)

  高木基金では、みなさまからのご意見などもふまえ、10周年の活動
  をふりかえる小冊子を発行する予定です。
  なお、誌面の都合もあり、寄せられたご意見のすべてを掲載できな
  い場合もありますので、その点はご了承下さい。
  よろしくお願いいたします。
 





高木仁三郎市民科学基金の10年によせて

高木久仁子

2000年の暑い日、「読んでみてよ」と仁三郎に言われ見たのが、パソコン画面の「高木基金の構想」のファイルでした。死期がせまった8月、河合弘之弁護士に遺言の執行をお願いする書類の中に高木基金の構想は入っていました。そこには、

高木の希望は、これまで、多くの人が亡くなった後で出来た「記念基金」的なものを見ると、たいていが、それは、直接に本人の意向を反映したものではなく、まわりの人が、本人の思い出のために行う事業であり、当初集まった金は一定あっても10年もたてば、資金繰りに苦労するようになる。そうかといって、「個人の偉業の記念」的な色彩が強いから、大新聞社のようなスポンサーが付かない限りそれ以上永続化するのは無理である。

私の構想はこれらと違う。私には、「生前の偉業」と呼ぶほどのものはないが、死後も世間を騒がす程度に長期的視野に立った事業、特にNPOの発展への具体的、実践的、現実主義的意図に関しては、「えらい先生方」にはない行動力があるつもりで、それが今日の私を私たらしめてきたものである。その線を、死に際しても貫くことで、私らしい生涯を貫徹できるのではないかと思う。後で仕事をになう人には、ご苦労な話であるが、私の最後のわがままとして許されたい。


と記されています。
文章の終わりに、以下の人には入ってもらいたいとの一文があり、私の名前も挙がっています。科学者でも専門家でもない私に高木基金の運営メンバーとは荷が重いとは思いましたが、躊躇している場合ではありませんでした。金勘定がまるで苦手な私に基金なんて不向きと思いながらも、最後のわがままには応えたいと覚悟を決めました。2000年10月8日仁三郎死去直後より、高木基金設立の準備ははじまりました。

立ちあげの資金は、ほぼ仁三郎の皮算用通りに集まりました。「10年も経てば資金繰りに苦労するようになる」は常に私の頭にありました。いや、10年経たずとも毎年1千万円近い助成金を出し続けることは大変です。しかし気がつけば、10年たった今も高木基金は仁三郎の残した遺産を維持し、今年も例年通りの助成活動を行うことができます。代表理事の河合弘之さんをはじめ理事・監事の皆さん、多額の寄付を寄せてくださる方々、会員になって支援して下さる方々、手弁当で助成選考に当る選考委員の方々の存在なしには、高木基金が10年を迎えることは不可能だったでしょう。日本には寄付文化が根付かないといわれながらも、それを打破せんと応援して下さる皆さまの存在は心強い限りです。2006年には国税庁から認定NPOの認定を得、高木基金への寄付が所得税控除を受けられるようになったことは、社会が変わってきたことを示すものかもしれません。控除が受けられるという受身から一歩踏み出し、私たちがめざす未来社会への投資だという認識が広がり社会に定着すればいいなと思います。

思い起こせば1997年、「プルトニウムの比類ない危険性を世界に警告することに貢献し、プルトニウム産業がその危険性について誤った情報を流したり、情報を隠したりすることに対して、多くの人々が抵抗するよう力づけてきた。」と高木仁三郎は共同研究者のマイケル・シュナイダーとともにライト・ライブリフッド賞を受賞しましたが、12月スウェーデン議会で開かれた授賞式のスピーチで最後に、

「私の受賞の報道の後で、大変多くの手紙、電報、FAX、電話、電子メール、花束等々を日本中の人から受け取りました。それらは主に草の根の運動の人々です。多くのメッセージが単にお祝いの言葉だけてなく、「ありがとう」の言葉を含んでいました。それらは、単に私に対する感謝と言うより、ライト・ライブリフッド賞財団と選考委員会に対する感謝です。これらの全国の人々は、私と同じ運動を分かち合っているわけですから、実際に受賞の名誉を共有しているのです。私は、このことは、財団にとっても名誉なことであると信じます。なぜなら、このように大勢の人々が分かち合う気持ちをもって賞を受け入れるほど、ライト・ライブリフッド賞にふさわしいことはないと考えるからです。」


と述べました。会場でスピーチを聞いていた当時の私には、いまひとつ実感が伴いませんでした。しかし、仁三郎が亡くなった後、この草の根の人々に出会う機会に恵まれることになり、これら数多くの人々は、彼と志を共有し共に歩んでいるんだということが私にもじわじわとわかってきたのです。

高木基金の10年は、このような方々の多様な協力があってはじめて可能だったと日々実感させられる毎日でした。この場を借りて改めて皆さまに感謝申し上げます。

さて、高木基金の構想に掲げられた、

  1. 市民の科学をめざす研究者個人の資金面での奨励と育成
  2. 市民の科学をめざすNPO(NGO)の資金面での奨励と育成
  3. アジアの若手研究者の育成

を、この10年でどの程度実践できたかと問われれば、これこれと示すことは困難です。1年間の助成で翌年に成果が提示できるものは多くはないでしょう。市民の科学の定義も人によりさまざまで一筋縄ではいきません。

私が大学を出て科学の道に進んだ1960年ごろ、人間の知識は今より少なく、まわりには未知の世界が真っ白く広がっていました。私はこの未知の世界を究めなければならない、と考えていました。ところが、約40年たってみると、たしかに知識も科学技術も進みましたが、同時に、周辺の未知の世界もまた大きくなっていることがわかりました。しかも、その未知の世界は真っ白ではなく、どうも灰色がかっています。

科学とはそういうもの、つまり知れば知るほど、問題が見えてくるものです。しかし、その問題を「灰色の領域」に立って担う科学者はほとんどいないし、予算もつきません。科学者たちは明るく見える「既知の領域」に立ちたがり、その方が予算もつくわけです。私が高木学校をつくったのは、「灰色の領域」をちゃんと手がける人たちを作りたいと思ったからです。さもなければ、『奪われし未来』ではありませんが、人類の未来は本当に奪われてしまいます。


これは、1998年12月の高木学校の第1回連続講座「プルトニウムと市民」での仁三郎の講演の一部です。自らの死後、「灰色の領域」を担う人を育成する仕組みを残したいという気持ちは、高木基金の構想に直結しています。

「灰色の領域」を担う市民科学者への資金面での奨励と育成を、この10年の間に実際にどの程度果たすことが出来たか、評価は様々でしょう。しかし、この10年の助成活動の結果、わかってきたこと、見えてきたことは決して少なくありません。平和で持続可能な未来の実現は、10年前よりいっそう難しくなっているように思えます。それだからなおのこと、得られた成果を社会に還元する努力を続け、初心を忘れず着実に1歩1歩、歩み続けていきたいと思います。





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