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「いま考えるべき科学、文化、宗教の役割」

  島薗 進さん(上智大学教授、原子力市民委員会座長代理・福島原発事故部会長)

今回のインタビューは、高木基金のニュースレター「高木基金だよりNo.37」の巻頭コラムのためにお願いしたものですが、いまの政府や経済界の科学や学問に対する姿勢に関わる問題から、日本における宗教団体の社会的な活動について、そして、NPOなどの市民活動や高木基金の役割などについて、話題は多岐に及びました。
(インタビュー実施日:2015年8月6日/聞き手:高木基金事務局 菅波 完)



− 今回はお忙しい中、インタビューをお引き受けいただきありがとうございます。早速ですが、このところ、政府や経済界から、国立大学の人文社会学系を縮小して、工学部などの「実学」に予算を重点配分するように求める動きが強まっていますが、島薗さんはどのように受け止めておられますか。

島薗 日本でもかつての経営者は、組織を運営していくにしろ新しい創造をするにしろ、経営において、教養的なものとか、広く社会や人間についての理解、文化、伝統や国際的な教養を踏まえてものを考えることが大切だと考えていました。次第に、競争でのし上がっていくことが強調されるようになって、教養的なもの、文化的なものの恩恵はこうむっていないけれども、経済的に成功したというタイプの経済界の人たちが増えてくると、文化方面からの発言はうるさい、という意識になってきたようです。
 自民党もそうですが、反知性主義というか、新自由主義的な改革をおしすすめていくにあたって、文系は余計な尻尾であり障害であると考えているようですね。

− このところ、大学の教員などから、政権批判の声が目立つようになってきましたね。

島薗  安倍政権の、多くの負の側面が目立つなかで、そのことによって、これでよいのか、新自由主義的な路線がもたらす破壊的な側面、科学、学術の健全な育成などが軽視されていることに、社会も気がついてきたと思います。たとえば、日経新聞がそのような論説を出しています。6月8日に出された、国公立大学の人文社会科学系や、教員養成系の大学を縮小したり、社会の要請にあう分野に転換したりするという方針に正面から批判する姿勢を示しました。それに先だって、政府が国立大学の入学式・卒業式で国旗・国歌を尊ぶようにと要請したことを社説で取り上げ、大学の自主性・自立性を尊重すべきであり、政府がそのような口出しをすべきではないと指摘しています。

− それは重要な指摘ですね。本来、当然のことだとは思いますが。

島薗  それから、言論に対する介入、抑圧がすごく目立つようになってきました。マスコミを政府が都合の良い方向に向けていく。これについて、国内からの批判が蓄積していますし、海外でも厳しい評価があって、そのような積み重ねですね。日本の文化を、経済的利益や軍事的な利益に従属させる動きが見える。これを安倍政権と与党の傲慢さだと評価するメディアが最近は目立ってきています。
 しかしこれに対する反省は、あまり目立たっていません。従来ならば、自民党の中にもあるはずだし、平和や文化を尊ぶ政党であるはずの公明党にも批判の声があってしかるべきです。しかし、一元的な官邸主導の政治がマイナスに出て、与党議員も自由にものをいえなくなってきました。党議拘束のようなかたちで、トップの言うことを聞かないと選挙に出られなくなるし、出ても負けてしまうと言う事態です。そのようなことを強く進めていった結果、いろいろボロがでてきて、国民の我慢の限界になってきています。これは、沖縄の新聞をつぶせと言った百田氏を招いた自民党会合での発言や、安保法制の公聴会で、与党側が招いた学者が政府の法案を批判するといったことが続いて起こって、学問や文化を軽視して、特定の勢力の利益、大企業の利益に引きずられる政府のあり方が問題だという認識が高まってきたのだと思います。

− そのような危機感が一般にも広がっていますね。

島薗  先日、安保法案についての学者の声明が出されました。その前に「立憲デモクラシーの会」というものがたちあがっていますし、文科省から大学への国旗・国歌に関する要請を撤回することを求めて活動する「学問の自由を考える会」というのもできています。さらに、軍事研究をすすめることに反対する科学者・研究者の動きが立ち上がってきています。このように、学者たちが政府の方針を問うために、次々に声を上げている。これに対して、学者の側から政府を支持する動きは微々たるものです。この状況は、とても現代的なのではないかと考えています。日本では顕著に表れていますし、世界的にもその傾向があるのではないかと思います。ごく少数の資本の利益、経済界の利益を後押しする国家。これに極端なイデオロギーを持つ勢力が荷担する。格差は拡大し、よく意義のわからない戦争が起こるという状況です。本来、平和に向かうべき関係を、むしろこじらせて対立させるような動きを、政治家がすすめています。

− 海外の研究者からの見方はいかがでしょうか。危機感は感じておられますか。

島薗  そうですね。日本政府の歴史観をめぐって、世界の多数の日本研究者がそろって声明を出しました。安倍政権への警告ですね。このインタビューのまとめが出るのは8月14日のあとだと思いますが、戦後70年の談話がさらに問題を大きくさせる可能性があります。
 そういうことと原発の問題が、実は無関係ではなく、大いに関係していると思います。たとえば、東芝の不正経理が問題になっていますが、東芝の経営がおかしくなっている背景には、無理に原発への投資をしてきたということがあり、その背後にあるのは、原子力ルネッサンスという宣伝に乗った、ということですよね。それは、経産省と電力業界が、いわば一体となって進めてきたということです。

− 東芝は、乗せられたというよりは一体となって進めてきた方ですね。

島薗  そこでは、学術的、科学的に示されている原発のリスクを無理矢理低く見積もり、コスト計算を都合のいいように見せるということをやってきました。つまり、政府が自己破滅的な構造を、大企業と一体となって進めてきた。それは、一般国民からすれば、とても受け入れられないことですが、国民が知らないうちにやってしまうという政治のあり方。それが安倍政権によって、白日の下にさらされたのだと思います。

− 内在化してきたものがむき出しになったということですね。

島薗  新自由主義改革というのは、さかのぼると中曽根首相、イギリスのサッチャー首相など、80年代になりますが、その路線を進めていくうちに、大組織は自由に行動して利益を蓄積していく。しかしそのために、多くの問題が起こってしまう。もっとも明らかなものは、原発事故ですけれど、それだけでなく、貧困、格差、地域の荒廃、孤立する人の増大、無縁社会というようなことが起こってきます。そういうことを無理矢理押し隠しながら、経済発展を続けることでそれらを解決しようとするという強硬策を国家がとらざるを得ない。国家は、新自由主義と結びついて、強引な、新たな富国強兵政策をとるという事態があります。そこには、軍事的なものと産業の結びつきが入ってきます。
 私が気になっていること中にはさらに、生命科学が、人体をいわば資源として利用すること、人間の欲望を拡大して経済利益を追求する。それによって人類社会が分裂してしまう、あるいは人間同士の連帯の基盤となるような、命の尊さの感覚が壊されていく、ということも入っています。
 科学はそういうものに「乗せられる」傾向がある。つまり、大きなお金をもらって、経済利益を生むような研究が厚遇され、そういうものに期待が集まり、賞賛される。そうでないような、人々の日常生活と結びついたような側面での重要な研究は、すぐに経済利益が上がらないという理由で軽視され、研究費もいかない。研究しようと思っても、冷遇されてしまうということが起こっています。

− 宗教学もそうですか。

島薗  宗教学はそれほどお金がかからないし、宗教の現場に近いところで仕事をしているので、少し状況が違うようです。そもそも文系全体がお金と結びつきにくいですね。新自由主義的な改革を進めると、長い時間をかけてつくられてきた社会関係のあり方、地縁血縁をはじめとする、あるいは、社会的なネットワーク、共同体等が維持できなくなる。ソーシャルキャピタル(社会関係資本)が枯渇してくる。そういう方向に進められ、つまり人々がばらばらにされてくる。

− あたかも自由になるがごとく・・・。

島薗  それが経済的な利潤を上げるには都合がいい。本来、宗教は、それに抵抗する要素を持っていますが、逆に、経済発展路線に味方をする方向に動員したいという動きもあり、政治的に非常に強硬な姿勢を持った宗教勢力が、そちらに荷担する。たとえば、アメリカの共和党に、ファンダメンタリストのキリスト教、あるいはティーパーティがくむということが一方にあり、他方で、一部のイスラム強硬派の人たちのように、そういうものに反発して、テロや軍事的な抵抗に向かうという流れもあり、これが世界の政治秩序を脅かしている、という不穏な状況にあります。

− だからこそ、そういう状況を冷静に認識する意味での学問や研究がないと暴走してしまいますね。

島薗  公共空間というものを考えると、多様な価値観を持った人たちが、討議をしながら合意を形成していく。時には妥協をしながら。そういうプロセスが、暴力的なかたちではなく、オープンになされることが重要だと思います。そういう公共空間が健全に機能するためには、学問、言論、芸術が自由で、活性化したものであることが重要です。文化的な領域が、市民生活のストレスやら希望やら、苦しみやら、そういうものをくみ上げて、政治的な合意形成の道を照らしていく、そういう政治の基盤を形成していくはたらきが、学問や文化にはあるのです。
 科学というものを、ただ、自然を人間の欲望の対象として、人間対自然、自然を支配する人間の力まかせの行為ではなく、環境と人間が調和しながら発展していく、そこには、様々な価値観や文化的なものが関わってくる。そういう中で、科学というものが、重要な役割を果たすという理解が必要だと思います。

− 今の状況については、悲観的、絶望的な印象もありますが、そこを突破する手がかりとして、希望を感じておられることはありますか?

島薗  高木基金がすばらしいですね。(笑)

− いやいやそういうことではなくて・・・。

島薗  市民科学ということですが、大組織中心に動いてしまう国の仕組み、経済界、官庁の仕組み、学術界もそちらに引っ張られてしまう傾向がありますが、それに対して、市民の生活経験、生活現場に即した科学のあり方を求める動きが、次第に成熟してきているというか、育ってきていると思います。広く言えば、NPO、NGO、ボランティア的な活動が力を持ってきている。宗教においても、政治的に対立をあおるような宗教ではなく、ネットワークを積み重ねながら、命の大切さの自覚を広げていくタイプの活動が広がっていますし、広げていきたいですね。
 これは震災後の支援活動にもありましたし、原発に対する反対運動にも現れていて、世論をみれば、原発の再稼働を是とする人より、否とする人がかなり多い。こういうことは、大組織の無理矢理の利益追求というか、そういうやり方が、選挙の仕組みでは勝っているけれども、世論というところでは明らかに負けている。拮抗する関係にある。上からねじ伏せるような動きと、下から抵抗する動きが、あちこちでせめぎ合っていると思います。これは今の世界的な傾向だし、日本でもそうだと思います。

− 世論調査では原発反対が多いのですが、選挙で勝てないことへの失望感が漂っていると思います。原発事故から4年以上が過ぎ、記憶の風化も指摘されていますが、それでも世論が一貫して脱原発を支持している状況は、見失ってはいけないですね。

島薗  ところで、高木基金のサポーターの人数はどうですか?

− たしかに、3・11の後は増えています。この基金だよりの発送部数は、2500人だったのが3500人くらいになっています。NPOやNGOの経営と言うことで考えると、欧米では10万人を超えるような支援組織というのもありますので、そのレベルにはなかなかなれないのですが、日本でも支援者が数十から数百へ、千から二千へというかたちで増えてくる中で、きちんとミッションをもって活動していけるという手応えは感じています。

島薗  原子力市民委員会の座長だった舩橋晴俊さんがよく言っていたことですが、ドイツが脱原発に転換したことの背景には、長い時間をかけて積み上げてきた市民運動の歴史があります。チェルノブイリ事故の影響があって、それが基礎をなしている。日本でも脱原発運動の背景には、広島、長崎があり、第五福竜丸、ビキニ事件があり、しかし、その後、巻き返しにあったような事態でした。そういう(ドイツのような)動きが遅れていたと思うのです。
 ただ、2011年3月は、原爆やビキニに次ぐ、日本での大きな転換の意味があります。たとえば、キリスト教組織は、2011年をもってはっきりと脱原発に転換しました。日本のキリスト教組織は大きくないですが、韓国のキリスト教もそうなりました。韓国ではキリスト教はメジャーな宗教で、これが脱原発に転じました。世界のキリスト教の中で、韓国のキリスト教が持つ声は大きいと思います。
 仙台で東北ヘルプという団体で支援活動をしている川上直哉牧師という方が言っていることですが、世界的なプロテスタントの会議などでは、核実験で被害にあってきた太平洋の島々のキリスト教徒の声が、世界に届くようになってきたそうです。今のローマ法王も南半球から出ていますし、西洋の近代文明の中でできてきた原発、あるいは核利用の問題性が、西洋の中で目覚めるという段階から、世界的な問題意識へと広がってきています。日本は、その大きな流れに加わっていると思います。ですから、原発再稼働に反対という意見は、単に一時的なものではなく、広島、長崎、ビキニを受け継ぎ、また、世界の脱原発の声と反映しあっているものだと思います。

− ドイツの脱原発のことを考えると、倫理委員会の報告書の果たした役割が大きかったと思います。それも、ドイツの市民社会の蓄積があったから、その点でまだ日本は弱いと言うことでしょうか。

島薗  先ほど、韓国のキリスト教会が影響力を持っている、ということを言いましたが、残念ながら、アジアの仏教界はそこまでいっていません。平和、科学技術の問題、生命倫理とか、原発などの問題に対して、しっかりした声を上げるところまでにいっていないのですが、ぽつぽつと変化の兆しはあります。たとえば、2011年12月1日に、全日本仏教会の脱原発の宣言が出ました。そういう方向に動く仏教界の流れがだんだん目立つようになってきました。そして、政治的なところにいかないまでも、市民社会の中で、人々の生活現場での問題に対応していこうという動きも始まっています。これは、日本の仏教の中では弱かったのですが、私も関わっている災害支援などから動き出しています。
 これまでは、檀家の葬祭を行い、そこで限られた範囲の人たちと接することに使命を見いだしていた仏教界が、もっと社会の様々な苦しみ悲しみに対応しながら、他の市民運動とか、行政などと協力しながら、宗教の声を社会に届けるという動きが出てきていますので、次第に、仏教の社会倫理的な発言がなされるようになる可能性があると思います。
 たとえば、ダライラマは、一人一人の悟り、幸福のための教えを説くとともに、世界が直面している様々な政治問題や社会問題に対しても、仏教の立場から発言していく、それは仏教にとって、当たり前のことなのですが、これまでなされてこなかった。そういうことについて、日本の仏教徒も自覚するようになってきました。

− 変わってきていることが、もっと政治に反映されてもいいはずですね。これから、ということなのでしょうか。

島薗  そうですね。

− 実は、高木基金は、新宿区のいくつかの市民ファンドと協力して、新宿区内の仏教のお寺やキリスト教の教会と連携する取り組みを始めています。新宿区内でも、「何か社会貢献に役立てたいが、どこに寄付をしたらいいかわからない」というような話は結構あると思うのですが、そのような寄付が、ユニセフや赤十字にばかり行ってしまうのではなくて、新宿区内の市民ファンドが、地域の資金循環の担い手として役割発揮できるのではないかと考えて、いろいろ知恵を絞る中で、お寺や教会との連携を試行的に始めてみました。すると、お寺でも、かつては近くに住んでいた檀家さんが遠くに離れて行ってしまうとか、お寺の住職も代替わりをして、若い30代の住職が奥さんと一緒に、これからのお寺のあり方を模索するとか、いろいろな悩みを抱えていることがわかりました。

島薗  最近は、墓地を供養墓のようなかたちにして、大々的にやっているようなところもありますね。そのようなところには、そのお金をぜひ市民活動に寄付するようにと言いたいですね。新宿区内の日蓮宗のお寺では、留学生に安く宿舎を提供しているところがありますし、曹洞宗のお寺でも社会的な活動で有名なところがあったと思います。
 欧米では企業に対する評価。メセナ、社会貢献をやっているか、社員に対する労働条件を適切にしているかといった企業の倫理的な評価をやっていますが、宗教法人についてもやってもいいと思います。

− 新宿は、人もいますし、様々なかたちでお金も動いているところだと思います。また、社会的な課題もいろいろありますので、身近な宗教施設を、もっとあてにしないといけないと思っています。

島薗  どんどんあてにしてください(笑)。今日は宗教の話ではないのかもしれませんが、宗教が震災で学んだことは、今までは、個別の宗教団体とか、宗派の中でしか活動していなかったのが、これからは、宗教・宗派の枠を越えて活動していくべきだと、この認識も広がっています。

− 話は少し変わりますが、いま、上智大学で教えてらっしゃる学生さんの姿勢や状況はどうですか。

島薗  私が仕事をしているグリーフケア研究所は、社会人教育で、受講生の平均年齢は40代後半くらいです。ケアの仕事、看護師、臨床心理士、ケアマネージャーとか、あるいは宗教関係の仕事。保健や教育関係の人もいます。あるいは主婦が学んでいます。
 グリーフというのは、死別の悲しみのことで、そのような経験を持っている方が、悲しみについての理解を深めるとともに、その悲しみを乗り越えていくためのもの、かつては宗教が担っていたものを現代においてどうやって提供していくのかがテーマです。震災支援の現場では、傾聴ボランティアとか、あるいは、死にゆく人のケア、死にゆく人の家族たちのケア、あるいはそういう仕事にあたっている人のケアを学ぼうというものです。
 お金にならない分野なのですが、けれども多くの受講生が集まります。これは人間としての成長を願ってきているのだと思います。かつての大学教育、高等教育では、こういうことを基盤にすることが当たり前でした。10代後半の若者が、これから社会人として、社会で活動していくための人間的な素養を深めていく。それが大学の第一の任務で、その次に、専門的な技能を身に付けて行く、ということだったわけです。
 ところが、先ほどの経団連の話ですが、経済界は役立つ人間が欲しいとして、専門的技能を持つ人にむかう。若者の方も専門的な技能や職能、資格を求めてくる。ですから、教養的なもの、人間としての成長には、向かっている余裕がない。もちろん、それができている大学、部門もありますし、大学教員、特に文系の教員はそれを目指していますが、なかなか実現出来ない。
 それを考えると、もしろ、社会人教育には、そういう側面がある。人生経験を積んだからこそ、もう一度、学び直したい。人間としての成長のために学びをしたい、ということを感じます。
 上智大学では、死生学の大学院を2016年度から始めるのですが、それを始めれば、社会人とともに若い人も来ると思います。最初の話に戻るかもしれませんが、お金になるための専門的知識や技術を習得する、国家や経済界がそれを期待する、学ぶ本人もそれについての要求があるけれど、それだけでは足りないし、国家や教育の本来の目的はそういうところではないということは、一人一人の市民も若者も認識しているし、その役割を大学が果たしてほしいという期待があると思いますので、これに応えていきたいと思いますし、そういうあり方と市民運動とは、自ずから共有できるものが多い。これが、原発事故が起こってから我々が経験したこととつながっていると思います。

− 高木基金の役割は、原発や核の問題だけなく、社会的な課題を掘り起すきっかけを作ることだと思っています。一人でやっているだけでは、あまり注目されない調査研究等を高木基金が助成することで、その問題にについて、より多くの人に関心を持ってもらったり、大学や行政が取り扱うようになったりするきっかけ作りになればいいと思っています。

島薗  原発事故が起こって、真っ先に私が読み直したのが、高木仁三郎さん、そして原田正純さんです。市民科学的な活動をしてこられた方ですね。そういう動きは、原田さんでいえば水俣であり、高木さんは原子力の問題に取り組んできた。そういう経験の中から生まれてきたものだと思います。また、宇井純さんの公害原論。舩橋さんは、それらの流れと関わりながら環境社会学にとりくんできた。細川弘明さんの場合は、オーストラリアでの資源開発と先住民の問題に長く関わってこられた。このような学問の働きが重要ですね。生活の中で生じてくる問題に、知的に応答していくということです。
 つまり、国家の政策の中で力を持っている大組織では関知できないことに反応するセンサーのような役割が、学問の重要な部分だと思います。これは、文系では非常にはっきりしているのですが、理系でも深く関わっている。その意味で原田さんや高木さんの仕事の意義が思い起こされました。
 私が頼りにしている科学者は池内了さんですが、池内さんは「等身大の科学」と言っています。これは市民生活とつながるような領域の科学のことですが、このような問題に、自ずから人々の関心が向かいますし、今後もそういう流れは強まっていくと考えています。
 行政組織でいうと、国は一番そういうものにセンサーがない、県は弱い、市町村のレベルは、ある程度ある。つまり市民生活、命の現場に近い・遠いということと関係がある。大学でも大きな大学は弱い。その中でも、お金をたくさん使う部分は特に弱い。小さなお金で営々とやっている方が、命の傷みや恵みへのセンサーが発達していると思います。

− センサーとして、高木基金ががんばれということですね(笑)。

島薗  なかなかわかりにくいのは、高木基金があり、高木学校があり、原子力資料情報室があり、その3つがそれぞれ活動しているということですね。

− 高木仁三郎さんは、あとに残る組織の道筋を作ることを強く意識しておられたと思います。高木さんの周りに集まった人が、今でもそれを引き継いでいます。

島薗  舩橋さんの追悼会にたくさんの人が集まって、その中には、市民運動をしている方もあって、舩橋さんのようにメジャーな学術領域で活躍しながら、自然エネルギーなどの実践にも関わっておられたのはすばらしいことだと思います。他方で、権力に取り込まれて自由な研究ができなくなってしまう御用学者も数多くいますが(笑)。

− 島薗さんには、御用学者論も伺おうと思っていたのですが、それについては、別の機会にぜひお願いしたいと思っています。今日は大変興味深いお話を伺いました。ありがとうございました。

<取材日:2015年8月6日 聞き手:高木基金事務局 菅波 完>


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