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「原発事故の被害を、
     なかったことにさせないために」

  清水 奈名子さん(宇都宮大学国際学部准教授)

3・11をきっかけに栃木県内で原発事故被災者の調査に取り組み、2018年からは原子力市民委員会の委員を務めていただいている清水奈名子さんにお話を伺いました。
(インタビュー実施日:2019年10月/聞き手:高木基金事務局長 菅波 完)



― 清水さんは、国際法・国際機構の研究がご専門ですが、原発事故被災者の調査に関わった経緯から教えてください。

清水 私の専門は、紛争下での一般市民の犠牲や、国際法や国連などの国際機構の研究で、研究手法としても、国連の文書などの資料を読んで分析することが中心でした。
 3・11の時には、職場も自宅も宇都宮にありました。栃木県内も地震で被災し、さらに放射能汚染もあり、被災の当事者となってしまいました。さらに福島の南隣ということで、福島からの避難者を受け入れる側になりました。
 事故直後に、同僚の研究者が、避難された方のニーズの聞き取りや支援活動を始めて、それを手伝うなかで、被災者の方にお会いし、この問題に向き合うようになりました。

― 分野も手法も違う研究に取り組まれたんですね。

清水 そうですね。国際関係の用語では、今回、避難された方は、国内避難民ということになります。自分が住んでいたところに住めなくなり、否応なく避難された方たちです。私が研究していた、シリアやコンゴの話が、21世紀の日本でおきて、それに対して、政府も自治体も大学もきちんと対応できないという落差に衝撃を受けました。
 原発事故は、戦争規模の国家的な危機ですが、日本国憲法のある日本で避難民が出たということ以上に衝撃的であったのは、国家規模の原子力危機の際に、国家が市民を優先的に助けないということでした。
 栃木県でも大学は、4月から普通に始まってしまいました。若い人たちから直接言われたわけではないのですが、カタストロフというべき原発事故を起こして、大人たちはどうしてくれるんだという思いを感じました。自分が18、19歳だったら、大人たちに怒りを覚えたと思います。
 そこで私は、分野が違うとはいわずに、どんなに小さなことでも、原発事故前と同じように授業をするのではなく、事故の問題を授業に入れるようにしました。3・11に関わる新しい授業を立ち上げ、自分の教育の中に取り入れていくだけではなく、研究者として、できることをやる責任があると、若い人たちと接する中で痛切に感じました。

― 逆に、国際的な紛争解決などから、福島の事故に活かすべき教訓はどのようなものですか。

清水  国家が市民を保護せず、むしろ切り捨てていく状況の下で、被害を受けた当事者は日々の生活で苦しく、自分たちの被害の記録を残す余力がないことが多いという問題があります。慰安婦問題が典型的ですが、当事者が記録を残せない一方で、公式な記録は焼却されたりする。そのようなことが今回も繰り返されると、30年、40年後に原発事故を振り返ったときに、栃木県北の被害の記録や、区域外避難者の記録がなければ――

― その事実そのものがなかったことにされてしまう。

清水 そうなんです。特に、巨大な利権と政治が関わる原子力という分野では、被害の実態を記録しておかないと、なかったことされると、強い危機感を抱きました。
 栃木県北の放射能汚染については、2012年のはじめに宇都宮大学で公開シンポジウムを開いて、福島県からの避難者問題を議論しました。その時に、栃木県北の那須塩原市で暮らす方が聞きにいらして、発言されました。栃木県北も放射能汚染が深刻なのに、汚染に応じた支援や対策がない。それについて、大学として向き合って欲しいと訴えられました。
 実はその時点では、私は県北の汚染が深刻だったことに気付いていなかったので、その後、提言してくださった方ともつながって、県北地域で子育てをしている方のアンケートや聞き取りもはじめました。同時に、福島県からの避難者による「栃木避難者母の会」の関係者とともに、福島県から栃木県に避難された方々の聞き取りも行うようになりました。
 これらの調査結果は、避難者への持続的な支援の必要性、また栃木県北地域での除染や健康調査のニーズがあることを伝えるために、復興庁や環境省関係者に説明しました。また地域の方々が自治体や議会関係者にはたらきかけるときに、データがないと弱いから一緒に来て説明して欲しいと依頼を受けて、そうした機会に調査結果を活用しました。
 さらに、福島県からの避難者の方々、そして栃木県北の被災者からお聞きした内容を、証言集として残すことに力を入れました。さきほどお話ししましたように、被害の記録を残す必要を感じていたからです。しかし、小さいコミュニティだから、匿名で話しても、あとで誰かわかってしまうから、言えない、公開して欲しくないとおっしゃる方もおられました。こどもたちが鼻血を出したと書くと、あとで差別されるのではないかと心配されるのです。
 そこで、出版というかたちではなく、大学の授業で使う教材として、匿名で証言をまとめたいとお願いしたところ、全員ではないですが、一部の方が、それならいいですよと言ってくださって、授業の教材用として証言集を印刷しました。3・11に関する授業で、毎年、証言集を読んで感想を話し合うようにしています。学生には、一学期の振り返りで、どの授業が印象的だったかをスピーチしてもらうんですが、多くの学生が、その授業をあげるのです。
 今の学生たちは、小中高の授業時間に、原発事故のことについて習っていません。学校では、放射線は安全だということしか習わなかったという学生もいます。

― 被害の記録を残し、次世代に伝えることが大切ですね。

清水 証言集をつくるときに重視したのは、事故が起きる前にはどういう生活をしていたのかを聞くことでした。事故が起きてからのことを取材したルポなどは多く残っていますが、事故によって失ったものが見えないと、「大変だったね」で終わってしまうと思い、事故が起きる前は、どんな暮らしだったかを聞くようにしました。
 私は東京で生まれ育ちましたが、同じ世代で、福島県中通り出身の方のお話をきいた際に、里山の恵みを受けたとても豊かな生活が大変印象的でした。お米、野菜、果物は自分たちで育てるか近所の人からいただく、海の幸も豊富に届く、夕食のおかずが足りなければ、ちょっと山菜を採ってくる。秋には庭の栗の木でマロンクリームを作って食べていたとか。まさか、お米や野菜をお店で買う日が来るとは思わなかった、ということを、私と同世代の方がおっしゃるんですね。
 土からからはまったく切り離された都会で育って、食料はお金で買うものと思って育った私のような人間とは、まったく違う「日本社会」で育った方々が失ったものを、理解する感性が私をはじめとした都会で生活している人々は失っていると思いました。そう思ったきっかけは、避難者について取材していた全国紙の新聞記者さんが、「何で引っ越しただけで、みなさん、あんなに騒ぐんだろうか」と、ぽろっと言ったんですね。記者や、霞ヶ関で法律を作っている官僚の多くは、皆さん転勤族じゃないですか。だから、数年間で各地をまわるのが当たり前の人々の感覚のままであると、代々の土地を引き継いで、里山の恵みで地域と共に生きた人たちが、失ったものに対する想像力が働かないのではないでしょうか。
 事故後に福島県から栃木県に引っ越されて、宇都宮市ではなくて、少し離れた郊外の、都会育ちの私からすると、のんびりした田園風景の中に住んでいる浜通りからの避難者の方が、「このへんは都会過ぎてねえ」おっしゃるわけです。同じ山を見ても、福島の山とは違うんだよねと。都会育ちの私にはわからない想いを抱えておられるのだと、強く感じました。
 そういった話も含めて、栃木県北の方もそうなのですが、震災前はどんな生活をしていて、事故後、何があって、何を思ってらっしゃって、最後に、もう一つ、学生と一緒に読む教材なので、次の世代に伝えたいことがありますか、ということを伺いました。
 最後の問いに対しては、みなさん、自分たちがした経験から学んで欲しいと、誰にもこんな思いはさせたくないと、おっしゃいました。
 日本は、74年前にとても大きな間違いをして、国内外のたくさんの人間を殺してしまった。その歴史の、自分たちの社会が犯した決定的な失敗に向き合うことをしてこなかった。その結果が、いろいろなところに、例えば東アジア関係で、いまだに修復できていない。次の世代に、負債を残してしまったわけですね。

― 修復どころか、今の政治家は問題の構造を理解していないですね。

清水 本当にそうですね。自分たちの社会が犯した過ちについて、私は本当に若い人たちに対して謝罪したいと思います。私たちは、その構造を変えてこられなかった。その結果、原発事故を起こしてしまって、その対応や影響や処理には、次世代にまで負担を押しつけるわけですね。原子力発電で何のメリットも関係もない世代にも。その意味で、世代間正義の問題ですね。さらに、原発事故という新たな失敗から学ぶことを、今回も避けようとしています。
 今の若い人たちの目には、日本の大人たちは、自分たちの世代の目先の利益を求めることにきゅうきゅうとしているように見えると思います。だからこそ、社会の問題に関心を持てないし、議論してもムダだという無力感があると思います。決してそういう無責任な大人たちだけではなくて、たとえば、高木仁三郎さんの「セレクション」の一冊を読むだけでも、原発事故のはるか前から、このまま行くと破綻すると警告し、最も深刻な被害を受けるのは市民であるから、市民の立場に立って、「市民科学者」として、研究の成果を市民と共有しようとした先達が、ドイツや他の国ではなくて、日本にもいたこと、問題に向き合って、責任を果たそうとした大人もいたことを、私は若い人たちに伝えたいです。私自身、今でもつらいときに高木さんの本を読んで、励まされています。
 もう一つ、若い人たちに伝えたいことは、女性の私が大学の教員になるということは、私の祖父母の時代にはあり得なかったということです。戦前の女性たちは選挙権もなければ、その多数は大学にも行けなかった。それが当たり前の時代がありました。現代社会は絶望的に見えますが、社会の中でやはり一歩ずつでも、人々がより人間らしく生きられる社会を目指してきた人々の働きの結果、今の私たちの生活があるわけです。
 いま、政府に原子力市民委員会が声明を出しても逮捕はされませんが、74年前の治安維持法があった時代には政府の政策を自由に批判できませんでした。昔とは違う社会、より自由や人権が尊重される社会に私たちは生まれました。それは、その時代時代に、「違うのではないか」と思い、学び続け、声を上げ続け、一人ではできなくても分野を越えてつながって、状況を変えたいと思った人たちがいたから、いま私たちが享受している自由や民主主義や人権があるのです。
 そういう意味で、大人の私たちがあきらめてしまったら、若い人たちの、さらに次の世代が住む社会は、ますます難しい、生きづらい社会になってしまうと思います。

― 大人の我々こそが、あきらめてはいけないですね。

清水 大人が上から目線で、今の若者は本を読まないと言う前に、知的な営みがもつ力強い可能性を伝える必要があります。
 例えば、学問の自由も戦前にはなかったわけですから。一部の特権的な人や、男性だけではなくて、すべての人に知的な作業がひらかれた初めての時代だと思います。私たちにできることは、確実に広がっていると思います。長い歴史の中では、実は楽だった時代なんてないと思うのです。恐慌の時代だったり、戦争の時代だったり。私たちは原発事故の時代を生きていて、それは防げたことだから、若い人たちには本当に申し訳ないと思っています。でも、絶望的な時代だからこそ、歴史的な流れの中であきらめなかった人々の放つ光が、逆に浮かび上がるのではないかと思っています。

― 今日は、勇気の出るお話しを聞かせていただきました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


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