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高木基金の取り組み

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この人に聞く 吉岡 斉さん

−まず、高木仁三郎さんとの出会い、関わりからお話を聞かせてください。

吉岡  1979年くらいだったと思いますが、高木さんが書かれた「科学は変わる」という本が東洋経済から出まして、それに感銘を受けました。高木さんは、今の科学が虚構の科学になっているということを、原子力という具体的な専門領域に即しつつ、科学論的な普遍性をもたせる形でに論じておられて、非常に印象的でした。

「科学は変わる」に感銘を受けて

当時、私は、東大の大学院におりました。学部は物理だったのですが、科学批判をきちんとやろうという問題意識から、大学院は、科学史に移りました。そこで、いろいろと学んでいく中で、高木さん流の考え方に出会いました。

また、在野で活動をしておられるということにも、強い印象を受けました。全共闘の頃に、自己否定といった議論があり、職業科学者であること自体を問い直す動きがあったわけですが、高木さんは、実際に、そこから抜け出してやっておられた訳ですからね。

私は、博士課程の時に、高木さんについての批評文を、雑誌に書いたことがあります。私は、75年に亡くなった 広重 徹という、立派な科学批判の仕事を残された方を目標としており、広重流の科学批判を発展させようと考えておりました。その批評文は、テーマを「科学批判の十年」とし、副題に「広重 徹から高木 仁三郎へ」として書いたものでした。79年頃のことで、今でもある「第三文明」という雑誌ですが、商業雑誌での私のデビュー論文です。

広重は、科学を内包する体制的構造について、アウトサイダーの視点からかっちりとした分析をしており、高木さんは、実践の世界に飛び込んで、そこからインサイダーの視点を引きずりつつ重要な論点を提示している。批評文の中で、私は、その両者の際だった違いを論じました。私は、広重流を発展させるという問題意識から、高木流をそこにどう生かしていくかを追求していきたいが、なかなかそれは難しい。という批判を書きました。

−それについて、仁三郎さんから、何かコメントはありましたか。

直接は伺いませんでしたが、高木さんには、けっこう堪えたらしい、と言うことを間接的に聞いたことがあります。

80年頃には、私が、「季刊クライシス」と言う雑誌の編集に関わっておりまして、その科学論特集で、高木さんに書いて頂いたり、そのシンポジウムに演者の一人としてお呼びしたこともありました。シンポジウムの時に、核融合について、私が、「けったいな世界だと」という発言をしたら、「その様に傍観してはいられない、本当に危ない面があって、私は、それに対して戦っているが、あなたは戦っていない。」と高木さんから批判されたこともありました。

「学者流に批判をやるのと、自分は違うんだぞ」ということなのでしょう。それは、高木さんが、科学史そのものについて抱いていた意識のようです。高木さんは、広重が生きていた頃に、その本を読んで、非常に第三者的であると考えていたようです。

高木さんは、都立大を辞めるときに、周りの人から「あなたのために、科学史の講座を作ることもできるから、残れ」と引き留められながら、それを拒否して辞めた訳です。高木さんにとっては、私の進んできた道は、「自分が捨てた道」であった気がします。だからこそ、違いを強調していたのかもしれません。

−それが80年頃。当時、仁三郎さんが42才の頃ですね。吉岡さんが、科学史の分野で研究してこられた流れの中で、仁三郎さんや、市民科学のありかたとの関わりについて、お話を続けて頂けますか。

市民科学についての具体的な実践は、80年代には、私は、あまりやってこなかった。むしろ、原子力を含む、いわゆるビックサイエンスを押し進める推進構造とその問題を、歴史実証的に分析することが、私の主たる課題でした。

もう一つは、科学技術について、推進のための思想がどの様に作為的に、批判や問題点を見ないようにできているのか、例えば、バイオテクノロジーや、マイクロエレクトロニクスに関わる言論の様式を取り上げ、批判的な言論を展開してきました。それと先に述べた体制的な構造の批判というこの二つを中心的にやってきたのですが、運動とは特に関わりがなかったです。


科学技術史研究から 原子力批判の現場へ

吉岡  80年代後半から、中山茂さんらと一緒に、「戦後日本科学技術の社会史プロジェクト」をやり始めて、それをきっかけに原子力の問題に深入りし始めました。その間、80年代は高木さんとのおつきあいはあまり無かった。90年代の半ば頃から、高木さんと、いろいろな場面で交差することが多くなりました。

93年頃がある種、日本の政治文化の転換の時期となりました。ポスト冷戦、ポスト「あかつき丸」で、推進派サイドとしても原子力を一方的に進めるのはもうやめようかという流れになり、対話というか、批判的な人も入れて話をする流れができ始めました。

95年末に、もんじゅの事故が起きて、原子力政策円卓会議が開かれたのが96年です。その第9回目は核燃料サイクルがテーマでしたが、高木さんの要請で私が出席することになりました。それに出席したメンバーは、東電の荒木 浩社長、福井県の栗田 幸雄知事、原研の、今は原子力安全委員長ですが、松浦 祥次郎さん、東大の近藤 駿介さん、鈴木 篤之さん、六ヶ所村長の土田 浩さんなどですね。批判的サイドも何人か入れると言うことで、高木 仁三郎さん、青森県知事選に出馬した平野 良一さんと、私が出ることになりました。

同じ時期に、原子力資料情報室が事務局になって、もんじゅ事故総合評価会議というものが発足して、私はそのメンバーにも入りました。

−その後は,原子力批判の現場で、仁三郎さんとの共同作業も増えてくるわけですね。

そうですね。97年に、原子力委員会の高速増殖炉懇談会がつくられまして、その委員に、批判的サイドも呼ばなければいけないという配慮から、科技庁は、高木さんに「あなたは出ないでくれ、その代わり何人か推薦してくれ」と頼んだようで、何人か推薦された内の一人が、私だったわけです。

−その流れで、今でも原子力委員会専門委員を務めておられるのですね。

いろいろと所属組織は変わりましたが、7年目になりますね。私としては、97年に、そういう場に出たことで、市民運動との接点が広がりましたね。

−当然、委員の立場になれば、市民からの意見や提案、または情報公開の動きの中に、当事者として関わることになるわけですね。

高木さんと私の違いも、そこで鮮明に解るようになりました。高木さんは運動のために役立つという原則で動いてきた人ですね。話は戻りますが、83年頃に、高木さんに一度、歴史について書いて下さい、とお願いしたことがあるのですが、高木さんは、いやだと断られました。その理由は、「歴史について書くことは、必ず運動を傷つけることになる。」運動について書くのは、「歴史家がやるべきことであり、あなたがやるべきでしょう。」という様なことを言われました。


運動に徹した「高木流」と、対話を維持する「吉岡流」

吉岡  運動のため、と言うのが、彼の一貫した姿勢でしたね。政策でも、こうすべきというアイデアがあっても、自分からは言わない。自分一人での提案はしない。相手がまともな案を出してきたときに、市民の立場として、それを検討する。自分が先走りはしない。これは、晩年まで一貫した姿勢だったのではないでしょうか。

−自分のアイデアやポリシーをぶつけるのではなく、そうなるようにいろいろな人に働きかける、と言うことなのでしょうか。

多くの場合、相手に対しては、ノンと言い続ける、ということですね。議論の仕方にも、それが現れていたと思います。そういう立場で問題点を鋭く指摘していましたね。

私の流儀は、そうではないのです。私の流儀は、負けないように工夫された、見る人によってはずるい作戦ですが、中立的な枠組みをとりあえず、たてておいて、結論として原子力開発利用の整理縮小へ導く。最後に意見が分かれるまでは、結論の対立は最後までとっておく。

高木さんは、計画の中止を正面から主張として打ち出していく。高速増殖炉懇談会にも、高木さんが一回だけ参加されて、「高速増殖炉開発はここがダメだ、あそこがダメだ」と追及されたのですが、それに対して、他の委員が、「それならエネルギー問題はどうする。代わりは何だ」と応酬し、言い合いというか、平行線になってしまいました。

私は、誰でも否定しにくいような中立的な装いの枠組みを立てて、ネチネチやっていく方なのです。審議会での経験を通じて、吉岡流が案外効果を発揮するということも解りました。意見が対立しても、対話によってある程度は意見を認めさせることは可能なんだと。

結果として、高速増殖炉懇談会は、成果がありました。報告書の第二次案で突然、実証炉計画は白紙になってしまいました。それも高木さんの、ライト・ライブリフッド賞受賞の一つの力になったのではないかと思っています。実際に、政策が変わったわけですから。これは高速増殖炉計画では大きな転換点であったことは間違いないです。それでも政府やサイクル機構は、もんじゅを動かすそうですが、まだ裁判がどうなるか解りませんから、彼らも安心はできません。 (注:取材の時点で、もんじゅの設置許可無効の判決は出ておりませんでした。)


トヨタ財団の助成に関わって

−話は少し変わりますが、吉岡さんは、トヨタ財団の助成にも長く関わっておられますね。高木基金として、市民科学を支援していく参考として、トヨタ財団の助成との関わりを聞かせていただけませんか。

吉岡  トヨタ財団とは、70年代末からつきあっています。アカデミックな助成を受け続けてきた関係です。トヨタ財団というのはおもしろい財団で、当初は、林 雄二郎という有名な未来学者が、東工大から引き抜かれて、初代の専務理事をやっていました。トヨタの総帥である豊田 英ニが、林 雄二郎に全部と言っていいほど一任していて、スタッフ選びも一任していたので、リベラルで専門意識の強い人たちをプログラムオフィサーに連れてきました。たとえば山岡 義典さんなどです。そういう人たちに見込まれて、中山 茂さんをリーダーとする私たちのグループは、批判的科学論で10年あまりにわたって、研究費を頂きました。学陽書房から出した「通史 日本の科学技術」というのは、そのおかげで出た本ですし、「原子力の社会史」もその副産物のようなものです。

その後、今度は恩返しのつもりで、選考委員をつとめたこともあります。市民的なものも含め、通常のアカデミックなもの以外にお金を出すのが、トヨタの昔からの方針です。文部省で出せるお金は文部省でやってください。それ以外について面倒をみます。それには市民的なものも含まれます、ということです。アカデミックな正統的なもの以外で、社会的にインパクトを持つものを支援するということです。

市民研究については、70年代から、その流れはありますが、日本ではそれを支援する有力な団体が無いこともあって、弱いなと思っていました。その中では、原子力資料情報室は、よくやっていると思います。市民研究の模範を作ってきたと、80年代からずっと注目をしてきました。


高木基金に期待すること

−また話題を進めさせて頂きますが、今後の高木基金に期待すること、これから高木基金が取り組むべきことについて、ご意見をお聞かせ下さい。

吉岡  プロ意識のあるプログラムオフィサーというのが、ぜひとも必要だと思いますね。有力な資金提供団体には、必ずいるものです。プログラムオフィサーが面白い研究者、研究グループ、研究テーマを発掘して、選考委員会なり理事会なりがそれを追認するくらいの関係で決定権と責任を持ってもらう。ただし3年間で成果が出なければやめてもらうというくらいの責任を課しても良いでしょう。もちろん、成果というのは良い研究を発掘することですが、良い研究者を見つけ出し、励まし、やる気と能力を引き出せるような、プログラムオフィサーを育てることが一番重要だと思いますね。あたかもシーア・コルボーンを発掘したジョン・ピーターソン・マイヤーズのように。

−そうすると助成のかたちも、ある程度長期にわたって、金額的にも、研究の規模としても、大きなものを支えていく必要があると言うことですね。

そうですね。やはり2年くらいは、見ていくべきだと思います。単年度では成果も出にくいですから。金額も、どうしても必要ならば、2年で500万円くらいのことを考えてはどうでしょうか。

−高木基金としても、それだけの助成金を出し、スタッフも備えるという体制へレベルアップしていかなければ行けませんね。他に、高木基金へのアドバイスをいただけますか。

高木基金として、重点的に支援すべき分野ですが、やはり、若手というのが一つのポイントで、若手に、市民的な科学の在り方とは何かを考えさせる、あるいは運動との交流の場を与えることが重要だと思っています。後々彼らが職業科学者になったとしても、プラスの影響が大きいと思います。市民の利益を擁護する研究活動の経験を与えることは、極めて有益ですね。

もう一つは、主婦のような立場の人で、自主的に社会に対して物申そうと考えておられる方ですね。こういう場合、たいていは研究費は得られませんから、それももう一つの重要な対象者ですね。そういう方で、ある程度能力の高い方がおられれば、応援していきたいですね。

一方で、実際に申し込みが多いのが、自然保護・野生生物保護に関連したアカデミックな調査や、市民教育的事業ですが、これでは市民科学としての経験を得ることはできませんので、残念ながら高木基金では、対象外でしょうね。野生生物保護よりも市民保護の方が重要です。

−市民科学のモデルとして、今、良い成果を出しているプロジェクト、研究者など、注目しておられるものがあったら紹介してください。

そうですねぇ。選考を控えているので、これは良いと褒めちぎって審査を誘導したくはありません。

−そ、そうですか(^_^; 。さきほどお話のあった高木仁三郎さんの原子力資料情報室が、ひとつの有力なモデルと言うことになりますか?

技術論争に耐えうる力という面では、高木仁三郎さんが抜けた穴は大きいですね。高木さんがそれを担っていたわけですから。テクニカルな専門性に基づいた調査研究をもつスタッフを揃え、それをサポートできる有力な資金力をもった集団が良いのですが、なかなか理想的には行かないですね。


市民科学者の「運動論」と「政策論」

吉岡  もう一つ言うと、政策論をいかにソフィスティケートするかと言う問題は重要です。運動論だけに偏るとどうしてもバイアスがかかってしまう。さまざまの選択肢を公平に比較し、最善が何であるかを検証するという議論の様式があります。私は、その様な様式に固執していて、市民科学者にも、それをひとつのレパートリーとして求めたいと思っています。運動体的なものの言い方とは、少し違ったものとして、武器庫にあって良いのではないかと思っています。

その意味では、高木さんの議論は、運動論の側面が強くて、政策論として必ずしも成立しなかった面があると思います。むしろ、彼の良さは、安全の問題に関する直感の鋭さですね。それはもう他の人の追随を許さないものでした。

−直感の鋭さですか。

専門知識をふまえた上で、どこにどの様な問題があるか、ということを見破る。その専門性に裏付けられた独特の感覚によって、原子力資料情報室も支えられていたと思います。


市民科学を志す人へ

−最後になりましたが、市民科学を志す人たちに、おすすめの参考文献を教えて下さい。

吉岡  若い人たちには、昔の本、古典と呼ばれるようなものを読みなさいと言いたいですね。一例をあげれば、武谷 三男という偉い物理学者で、原子力資料情報室の初代代表をつとめた人がおりまして、私は高校の頃からのファンで、それで物理をやろうと思ったわけです。そのあと実際の物理の世界が職人の世界で、思想を深める場ではないことに気づいて、科学史に転向しましたが。いま、予防原則ということが、よく言われるようになりましたが、これに関して50年代から、今でも通用するような、クリアーな議論がなされています。

1957年に、彼は「原水爆実験」(岩波新書)という本を書いているのですが、この中で、よく読めば、今の生半可な予防原則論よりも遙かにクリアーな議論がされています。

ただ彼の文章は、やや省略形が多くて、言葉を補って読む必要がありますが、昔の人の知恵は継承発展させた方が良いと思います。歴史と古典は、重要ですね。

−どうもありがとうございました。

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