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高木基金の15年を振り返り、「市民科学」の可能性を展望する
−高木基金の役員からのコメント−



地道に市民科学を探究すること、それを支援し続けること             代表理事 河合 弘之


 高木仁三郎さんは、2000年10月8日に死去した。これほど多方面かつ多くの人に惜しまれた死は珍しいと思う。それは彼の実績、思想の質の高さのためであると同時に、彼に更なる行動と成果を期待していた人が多かったためであろう。自らが癌にかかっていることを表明してからの2年間の高木さんの活動は目覚ましいものがあった。
 各地で講演をし、証言し、そして著作した。私は彼の講演についてまわった。これが最後の講演になるかもしれないと、いつも思いながら。原発の廃絶、とりわけ核燃料サイクル政策の廃絶を熱っぽく語る彼を見て、私は「野に叫ぶ聖者」という言葉を何回も思い浮かべた。また市民科学の必要性を説く彼の姿は、良心的で有能な科学者の思想の到達点を示していた。
 黒板に図を書きながら、彼は言った。
 「科学や技術は人間の利便性という光のさす部分を追求する。しかしそれには必ず陰の部分、負の部分が伴うことを忘れてはならない。自動車のもたらすスピードと排気ガスによる空気汚染、地球温暖化のように。その最たるものが原発による電気の利便と、過酷原発事故の恐れ、日常的被曝、そして使用済み燃料の後世への押しつけだ。これら現代科学・技術の陰の問題に市民の立場から取り組み、市民のための解決策を提示する科学が必要だ。それを市民科学と呼ぼう」
 高木さんが晩年に至って明確に打ち出したこの考え方には、多くの者が感銘を受けた。
 高木さんは市民科学という思想を主張するだけでなく、実際に市民科学を奨励し、市民科学者を育てる枠組みを作ろうとした。その一つが高木仁三郎市民科学基金である(もうひとつは高木学校であり、これは彼の生前に発足した)。
 彼は弁護士である私に対して、彼の全ての財産を基金の設立に当てるような法律的なスキーム作りを依頼したのだ。私は忠実にそれを実行した。彼の遺産は約3000万円だった。清貧の彼にも多くの支援者がいて、それらの人々からの基金を、彼はしかるべき日のために貯えていたのだ。彼は言った。「私が死んだら月並みな葬式はやめて偲ぶ会をやってほしい。そこでカンパをいっぱい集めて私の遺産とあわせて市民科学基金の基礎となるお金をつくってくれないか」。
 残される者にとって重い課題だった。
 2000年12月10日、日比谷公会堂での偲ぶ会には約3000人の人々が集った。
 そこで私は懸命に高木基金の必要性をのべ、基金の要請をした。「皆さん、今、財布の中にあるお金を全部置いていって下さい。それは高木さんと志をともにすることです。」と。スピーチが終わった時の拍手の大きさを私は忘れない。これで基金を発足するに足りるお金は集まる、私はそう確信した。その日の夜、遅くまでかかって千円札、壱万円札と硬貨を皆で勘定した。
 3880万5390円あった。これと高木さんの遺産約3000万円の合計約6900万円で高木仁三郎市民科学基金はスタートした。
 私たち理事が、この基金の基礎に据えたコンセプトは「市民運動としてのファンド」ということだ。
 大会社や大金持ちが大金を拠出し、それを審査委員らが良しとする研究に、助成金として出すのが普通のやり方だ。しかし、それでは市民科学助成としての特徴がないし発展性がない。
 市民運動体としての基金とは、「市民がお金を出し、応募者は市民に向かってプレゼンテーションをし、市民の意見も入れて助成対象者を決め、対象者は研究が終わったら、その成果を市民に向かって発表し、その発表に感銘した市民がまたお金を出す」というような良い資金循環としての基金である。反原発だけではない広い分野から理事と選考委員を得て、この基金は動き出し、動き続けてきた。
 そして2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故。
 高木さんが、「友へ――高木仁三郎からの最後のメッセージ」(これは偲ぶ会で朗読された)で述べた、「原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです」という言葉のとおりになってしまった。福島第一原発の重大事故の発生を知ったとき、高木さんの危惧が現実になってしまったことに、私は強い怒りと悔しさを覚えた。
 そして、もう二度とこんなことを起こしてはいけない、そのためには何でもやろうと決心した。そのように心を動かされた人は多かったと思う。現に、3・11事故後、高木基金に対する寄付は急増した。「原発事故はもうたくさんだ。原発をなくす、安全・安心な社会をつくるための研究や運動に使ってほしい」と。
 その中で、2011年の12月に、都内のとある個人の方から、亡くなられたお母様の遺産からとのことで、5千万円もの高額のご寄付をいただいた。その際、「先進的または実験的で、その成果が次の事業に生きるようなプログラムを新たに開発し、概ね10年にわたって実施してほしい」という主旨のご要望をいただいた。難しいご要望ではあったが、高木基金としても大変光栄なことであり、2012年度の一年間をかけて、どのようなプログラムを立ち上げるべきか、検討を重ねた。もともと、ご寄付の際のご希望には、原発問題へのご指定などはいただかなかったが、福島原発事故を受け、高木基金として新たに立ち上げるべき事業としての結論は、脱原発社会の構築のための情報分析、現実的な政策立案と社会的な検討の「場」を構築すること、すなわち、「原子力市民委員会」の立ち上げである。
 この大きなご寄付のおかげで「原子力市民委員会」が発足し、さらに多くの方から事業指定寄付によるご支援をいただいたことで、活動を継続することができている。原子力市民委員会が発表する意見は、再稼働一辺倒の政府や原子力ムラの一方的な言い分に対する強力かつ有効な反撃となり、また市民の心のよりどころとなっている。
 3・11以降、多くの方々から大口、小口の寄付を頂いたことに、心から感謝し、ともに喜びたい。また、この様な活動をこれからも粘り強く続けていくために、引き続きのお力添えをぜひともお願い申し上げたい。
 地道に市民科学を探究すること、それを支援し続けること。これが私たちにできる最も重要なことだ。時の権力がどんなに無理押ししても、世論調査をすれば、原発再稼働反対の数は、賛成の3倍もあることがわかる。この声は「原発やめろ!! 自然を守れ!! 地球を守れ!! 後世に美しい環境を!!」という声と100%重なっている。そのような声を維持し、強くしていくことがついには政治を変えるのだ。そのための知識と意思を国民に供給し続ける。これが高木基金の役割だと思う。



高木仁三郎が「現代科学の超克をめざして」で伝えたかったこと           理事 高木 久仁子


 2000年に死去した高木仁三郎の遺志を受け止め、高木基金設立に奮闘して下さった方々のご助力はもとよりNPO法人として理事・監事、また選考委員、顧問各位、事務局スタッフ、そして申し上げるまでもなく会員・寄付者のみなさまに支えられて設立15年を迎えることができました。心からお礼申し上げるとともに、今後とも高木仁三郎市民科学基金をよろしくお願い申し上げます。
 没後16年とは当然ながら存命中の仁三郎や彼の思想を知らない人が多くなっているということです。一方、市民科学はいまだカッコつき用法で市民権を獲得しているとはといいがたい状況です。
 いま国内を見れば、福島原発事故原因の解明はおろか、責任不問のまま再稼働は進行し、秘密保護法制定、安保関連法の成立、武器輸出国への転身、軍事研究費増強、南スーダンの自衛隊の駆け付け警護の開始、共謀罪法案の国会提出、自主憲法制定への動き、政府は一路「強大国」をめざし、裏腹に基本的人権はますます侵害されつつあります。大量生産、大量消費の時代を経て、消費対象が人間にまで及んでいる時代に危うさを感じずにはおらせません。この状況は高木基金の目的、市民科学者育成と切り離して考えるわけにはいきません。
 「現代科学の超克をめざして−新しく科学を学ぶ諸君へ」という『朝日ジャーナル』1970年4月号への投稿は、「混沌のうちに1970年新学期」を迎える学生へ向けられたものです。仁三郎31歳の、現代科学が自己への桎梏となり市民科学をめざす出発点といえる内容なので、時代背景も異なる46年前の観念的な文章であることは承知の上で一読していただければ幸いです(字数の制約で抄録。全文は岩波現代文庫『高木仁三郎セレクション』所収)。
 市民科学へ各人各様のお考えはあると思いますが、市民科学者育成への手掛かりになればと願います。

朝日ジャーナル1970.4.26号  

現代科学の超克をめざして ―新しく科学を学ぶ諸君へ

高木仁三郎   

 …いま最も求められているのは、再度科学とは何かの根源にたちもどり、「現代科学の超克は可能か」についての最大限の模索をすることではないだろうか。…

三つの問いかけ
 現代を人類の歴史における変革期とする認識はきわめて一般化してきている。長いあいだ繁栄を誇ってきた巨大な西洋近代文明は、二〇世紀に入ってその退廃が確実に感知され、現在、極限的兆候をあらわにしている。…科学技術の総力をあげて核兵器を開発してきた〈近代〉の論理が現実のメニューとして私たちの明日の食卓に何を用意しょうとしているかを明確にとらえるならば、私たちはみずからの生のために立ちあがらねばならないのだ。
 ところで、大学闘争で自然科学(以下とくに誤解を生じないばあいは単に科学と書く)が現代社会に果す役割について問われた点は、次の三点に集約できるだろう。
 第一に現代の科学は制度として完全に体制内化され、大学をもふくめて研究機関の近代的再編が進むにつれて、いよいよ科学の成果はすぐに技術化され、あるいは合理化の名のもとに労働者階級の収奪の道具となっていくという点である。産・軍・学協同に対する告発もこの観点から行われている。
 第二に科学者自身の置かれた立場の階級性ということが指摘された。現代の科学者は高度に専門化し、知的活動の排他的独占者として存在している。研究の私物化に対する批判は、この点に関係しているといえよう。…
 第三点は現代科学自体の人類に対してなし得る役割の問題である。それは科学の内部的にもつ退廃とその論理の危険性に対する追及であった。…もとより近代科学は資本主義社会の発生と密接に関係しつつ、その制度としての科学″として発展してきたし、逆にまた、近代科学の合理主義思想が近代社会をささえてきたのであるから、第一、第二の点と独立に科学の内容を問題にし、現代科学の退廃の問題を創造性の欠如、進歩の停滞といった問題に矮小化することはできない。しかし、であるからこそ、歴史的に規定される現代科学の状況を、その内部構造においてとらえ返し、告発していかないと「現代科学超克」への志向性は見出されないだろう。

人間欠落の果てに
 近代科学は実証主義・経験主義を支柱とし、人間主体から切離された〈客観的〉自然認識を深めることを目標として進歩してきた。いうまでもなくこれは自然を単に生産の対象ないし道具としてだけ位置づけ、その支配を目標とする近代ブルジョアジーの論理と密接に関係している。だから自然に対するあらゆる知見情報は、それ自体善であり進歩であるとされた。…自然についての研究は、それが本質的な知見を生み出し得るかという次元で問われることがあっても、それが人間にとって、いかなる価値をもつかについてはあらかじめ学問の対象から排除されてしまっている。そしてこのような、一見したところ没価値観的かつ超イデオロギー的手法こそが科学的″の名をもって呼ばれている。しかし実はこのような自然観と近代合理主義にのっかった物神崇拝的二元論(人間と科学の二元論的乖離)こそが近代科学のイデオロギーなのである。もちろんこのような二元論が近代市民社会の発生と興隆の時期に果した役割は十分評価しておく必要はある。…中世科学が人間から自律した自然認識を志す近代科学によって乗りこえられたことは、神学支配からの人間解放として高く評価されねばならないし、この点に近代科学の正当性を主張する見解は誤りとはいえない。しかしこのような二元論によって中世を克服した点にこそ、まさに近代科学それ自身の限界性が宿されていたこともまた明白な事実なのである。
 人間を欠落させた科学は、かくして効率のよい発展を保証され、制度として確立されてきた。情報知識に対する無差別的信頼は分析的・解析的手法を発達させ、科学は個別化し、せまい専門分野に分断されてくる。いっぽう、実証的認識の絶対化と物神崇拝的機械論の必然の帰結として、観測ないし実験手段への盲目的信仰が生れ、生産技術の向上と生産力の増加にささえられて、装置の巨大化が生れる。ますます巨大化されつつあるプロジェクトと装置を前にして、個々の科学者ができることはますます限られ、研究は細分化され、分断化されて、全体計画の中における個人の主体的展望は失われる。これまでの科学研究者にとって残されていた人間性、すなわち独創的研究への主体性はますます奪い去られ、科学者はその研究対象からも疎外される(軍事研究を拒否せよと言われても、このように全体的展望を失った研究者にとって自分のしていることが軍事研究か否かの判断は不可能なのである)。したがって創造的研究の欠如といった問題も、それが個々の研究者の怠慢とか、無能とか、あるいは科学方法論的な誤謬といった問題に帰結すべきでなく、このような科学の状況の中に位置づけて把握されねばならないだろう。そして科学者にとっての残された唯一の楽しみは自己の研究業績や装置に対する私的な満足しかないのである(研究の私物化の意味をこのような観点からはっきりととらえておく必要がある。それは科学の今日的状況で体制内に自己を限定した科学者の側からの必死の自己表現なのだ)。
 このようにして巨大化と細分化を拡大再生産していく科学にとって、これを管理化し、システム化していくことが必要不可欠となる。こうして現代科学は、体制の側からの管理化=体制内化に抗し得る何らの論理ももち得ない。私たちはその実例をアメリカにおける科学研究、とりわけ第二次大戦下におけるマンハッタン計画と最近のアポロ計画にはっきりと見てきた。わが国に押寄せつつある巨大科学の波も、この例外ではあり得ないこともまた明々白々である。〈近代〉の論理であり、構造としての現代科学そのものを克服する志向性を基盤としないかぎり、今日、多くたてられているような問題設定、すなわちいかにして国家権力の介入を排して研究者の主体性のもとに巨大科学を進めるかといったこと自体、さしたる意味をもたないのである。あえて極論すれば研究者の主体性などというのは言葉のアヤにすぎないのではないか。
 現代科学の構造としてもう一つ見おとしてならないのは計量化ということである。ほとんどの科学的情報は観測手段に固有の計量的表現でもたらされる。実証的認識の名のもとに絶対化される、計量化された知識は本来、計量化され得ない事象と価値の近似的表現にすぎない。それなのに現代では近似表現としての計量値が〈科学的データ〉と呼ばれて物神化され、コンピューターなどの技術的発展と相まって社会を動かす力となっている(友人の指摘によれば、このような計量表現の近似計算性″は近代市民社会の構成原理としての多数決民主主義に最もよく表わされている。現在、民主主義が問われていることと科学が問われていることと根底では同じであることは無視できなきないだろう)。
 こうして現代で科学技術は、自然の支配をほとんど完成し、残された最大の事業として、自然たる人間の支配制御へと向かっている。人間をさまざまな形で計量化し、コンピューターによって制御する。そして労働能率や生きがいまでも機械的に操作しようとしている。このような現代科学の実体をとらえるならば、もはや現象論的に問題にされているいろいろな側面、とりわけいわゆる産・軍・学協同なるものが、その内部構造に深々と宿っていることが理解できるだろう。…

位置を転倒し、主体を形成し
 現代科学はそれ自体の論理と構造において本質的に〈西洋近代〉の論理と構造であり、終局で人間の生と対立する科学である。このような科学を一面的にとらえて、そのよい部分″をとってよい科学としていくこともできないし、「自然科学は自然の客観的反映であるからそれ自体は超イデオロギー的価値を形成する。むしろその利用の仕方が問題なのだ」といってすますわけにはいかない。現代科学をトータルに超克することにしか私たちの方向性はないのだ。そのことは科学内的ないし学問内的に閉じた回路のなかにではなく、〈近代〉そのものが切ってすてたものを認識し、〈近代〉を超克する総体のなかにしかまた、科学の根底的変革もあり得ないということである。
 私が今〈自然科学〉を志すとき、私の志向する〈自然科学〉とは何だろうか。…それは結局、現代科学の根源的問題性、すなわち人間と自然(ないしは自然認識)とのあいだの二元論的分断を克服することにほかならない。
 人間本来の精神、人間の奥底にひそむ衝動が、本来的に自然たる人間への回帰の欲求であり、あらゆる抑圧からの解放への希求であることを認識するならば、その追求こそが〈自然科学〉にとって唯一の課題なのだ。いいかえれば、近代合理主義によって合理性の名のもとに切捨てられてきた人間の内奥の衝動を、主体の側から掘りおこし、〈科学〉と人間の位置関係を転倒することである。…このように〈科学〉の課題をとらえ返すとき、〈科学〉にとってもまた体制変革こそがその実践的な指向性となる。このような方向性を、よく言われるように価値観の変革″として位置づけるのもよい。しかしくりかえすようだが、強固な物質的保証をもって存在している歴史的現実に対して、価値観の変革も単にイデオロギー次元の問題として存在しているのではなく、実践的なたたかいのなかに物質的基盤を作りつつ達成されていくものなのである。
 このような〈科学〉の志向はすぐれて実践的な主体形成の問題を提起する。二元論的に分断化された個を克服し、人間的視座に立つことが要求されよう。それは科学する主体の必要性といった観点からではなく、行動主体として自立していく人間の内なる人間″の表現こそが私たちの〈科学〉だからである。まず私たちが排他的な職業科学者・研究者(学生)の座に自己を規定することをやめ、〈近代〉の表現するあらゆる抑圧機構と実践的にたたかっていくことだ。そしてそのたたかいの質、緊張関係を〈科学〉のなかに対象化し固定化していくことだ。
 このように科学をとらえなおし、主体形成をしていくことしか、はっきりいっていまの私たちには何も見えていない。…しかしその過程で、具体的に克服されるべき問題の若干の見通しはある。第一にあらゆる分断と個別性からの脱却ということである。…人間としてのトータリティーを復権することでもある。
 第二に〈近代〉によって表現され得ない価値と意志の表現方法を見出していくことである。このことを通して計量化あるいは情報化の名のもとにもたらされる〈合理性〉の暴力的仮面を一つ一つはがしていくことである。…

幻想を迫って
 私たちの志向性を具体的に物質的に保証していくような運動はどのように展開されるだろうか。…具体的な運動点として、これら〈合理主義科学〉のもつ非論理性、非合理性を告発していくことは必要だ。であるからこそ一つ一つの運動の実践を通して、現代の科学技術を貫く共通の構造と論理を把握し、〈近代〉の超克の闘いへと昇華させていくことだ。
 そしてさらに重要なことは、近代ブルジョアジー総体に対する闘いの総体に個としても運動としてもかかわりあっていくなかから学問内的に閉じない運動の質を保障し、なおかつ闘争全般のなかにいっさいを解消するのでなく、既成の体系をゆるがす質を導入していくことだろう。この点にこそ〈価値観〉の変革を現実化していくカギがある。…
 私たちの志向性はしょせん幻想を追い求めるインテリゲンチア運動の域を出ないかも知れない。…未だ二元論的にしか存在していない私たちの〈学問〉と闘いとが、トータルに一つのものとして私たちのなかに存在し得る日を追い求めるのは、一片の幻想にすぎないのだろうか。



ダム反対運動の経験から                                      理事 嶋津 暉之

水源開発問題全国連絡会共同代表。2005年12月から高木基金理事。

 私はダム等の河川開発への反対運動に長年取り組んできています。2004年3月までは東京都環境科学研究所で河川や海の水質問題、浄化技術等の研究に携わっていました。その仕事の傍ら、ダムや河口堰などの開発事業によってかけがえのない自然、人々の生活が失われていくのを目の当たりにして、無用の河川開発事業を止めるための活動に長年関わってきました。
 東京都を退職した後、高木久仁子さんから高木基金の理事就任のお話がありました。私自身は助成申請の中心を占める原発問題については門外漢であり、どこまでお役に立てるか、自信はなかったのですが、様々な現場で闘っている市民の活動に光を当て、その活動をバックアップしていく高木基金の役割が大変重要であり、その一端を担えること、そして、尊敬する故・高木仁三郎さんの遺志を引き継ぐ活動に関われることを誇りに思って、理事を引き受けさせていただきました。
 ただ、理事に就任したものの、私自身がダム等の反対運動に追われ、理事会や発表会等を欠席することが度々ありました。とりわけ、福島原発事故以降、高木基金が活動の大きな転機を迎えていたころ、後述するように、八ッ場ダムをはじめ、各地のダムをめぐる状況が河川官僚の巻き返しで極めて厳しい局面になっていて、私はその対応に忙殺され、高木基金の理事の仕事から一時期、遠ざかってしまいました。大変申し訳なく思っております。
 さて、理事の仕事は大きくは二つあります。一つは高木基金の活動報告、活動計画、選考委員選出を理事会としてチェックして承認することです、もう一つは高木基金の助成について意見を述べ、理事会として毎年度の助成を決定することです。前者については、高木基金は抜群の能力を持つ方々が事務局を担っていますので、何ら心配がないのですが、高木基金がバランスのある活動をしているかどうか、事務局の方々に過度の負担になっていないかなどについて意見を述べることがありました。
 後者の助成については選考委員の方々が助成申請書に読んでまとめた審査結果をもとにして、公開プレゼンテーションでの発表、質疑を聞き、選考委員・理事を交えた議論を経て理事会が最終決定をします。分厚い助成申請書を読んで、審査結果をまとめる選考委員の方々のご苦労にはいつも頭が下がる思いです。理事ももちろん、助成申請書に目を通しますが、審査結果をまとめる選考委員の労苦と比べれば、その面での理事の仕事は雲泥の差があります。
 各市民・各団体からの助成申請に対する私の基本的な視点は次のようなものです。

(1)反権力の活動であること
 最近は行政・経済界が市民活動を抱え込むために助成金を支出することが少なからずありますので、それらと一線を画す必要があります。反権力が高木基金の原点でありますので、姿勢があいまいな申請は低く評価しました。
(2)問題と格闘し、状況を切り開くための調査研究活動であること
 助成申請者が関わるテーマは様々なものでありますが、団体活動を維持するためだけと思われる申請は低く評価しました。問題と格闘し、状況を切り開くための調査研究活動があることが伝わってくる申請を選びました。
(3)それなりの科学性があること
 高木基金の助成は市民科学のための助成ですから、それなりの科学性が求められます。調査研究の手法に科学性があること、事実を積み上げていく実証の手順が明確であることを求めました。科学性に疑問があり、神秘主義ではないかと思われるような助成申請に対しては厳しい意見を述べました。
 また、私自身がダム等の反対運動で、他の助成団体に助成金を申請することもありますので、運動を展開すべく、必死の思いで高木基金に助成金を申請される方々の気持ちがよく分かります。そして、市民が行える活動にはおのずと限度がありますので、そのこともよく踏まえなければなりません。高木基金の助成審査は、助成申請者の目線で行う審査でなければならないと思っています。
 
 最後に私が関わっているダム等の反対運動の状況を述べたいと思います。
 私自身は40年以上、ダム等の河川開発の反対運動に関わってきましたが、残念ながら、1990年代前半まではダム等の事業が止まることはほとんどありませんでした。一生懸命、反対運動に取り組みましたが、大きな広がりを持つ運動にはなりませんでした。しかし、1990年前後から長良川河口堰反対運動が全国に広がり、それを契機として、各地の河川でもダムや堰などの計画、建設が進められていることを多くの市民が知ることになり、全国でダムや堰等の反対運動が展開されるようになりました。
 そのような反対運動の大きな広がりを背景として、1997年に河川法の大改正が行われ、河川の計画策定に住民が参画する道筋がつくられました。そして、1990年代に入って水道用水の需要の増加が止まり、減少傾向になってきたこと、財政事情が一層ひっ迫してきたこと、ダム等反対運動の高まりが相まって、1996年頃からダム計画が徐々に止まるようになり、2000年にはかなりの数のダムがストップされました。今までに中止されたダムは小さいダムも合わせると、約140基にもなります。その中にはダム反対運動の成果として止まったダムも数多くありました。
 しかし、八ッ場ダムをはじめとして、従前通り、推進されているダム計画も少なからずあり、国等によるダム推進と、市民たちのダム反対運動のつば競り合いが展開されていきました。そのような状況で、ダム反対運動側の総仕上げが2009年の民主党政権による全国のダム見直し声明、八ッ場ダム中止声明でした。この声明に基づき、翌年から八ッ場ダムなど、計画中・事業中の84ダム事業の検証が始まりました。
 ところが、国土交通省の河川官僚は巧妙に立ち回って、ダム検証を逆に推進のお墨付きを与えるシステムに変えてしまいました。ダム検証によって、八ッ場ダム等、反対運動が進められてきたダム事業のほとんどは推進されることになってしまいました。
 ダム反対運動の総仕上げとしてのダム見直しで多くのダム事業がストップされるはずであったものが、全く逆に、問題ダムが次々と推進されることになり、ダム反対運動は今は厳冬の時代になっています。民主党政権下でダム反対で頑張った議員もいるのですが、政権そのものが期待を大きく裏切ったことにより、全国のダムをめぐる状況は暗転し、自公政権になってから、なりふり構わず、ダム事業が強引に推し進められるようになっています。
 しかし、嘆いてばかりいても仕方がありません。全国各地で今も多くの人たちが何としても有害無益なダム等の河川開発事業を止めようと、必死に頑張っています。
 ダムだけではなく、今の政権は強権的に民意を圧殺することを億面なく、行ってきています。そのような時代であるからこそ、市民の活動に光を当て、その活動を支援する高木基金の役割の重要性が一層高まってきていると思います。



理事の末席よりつれづれなるままに                                理事 竹本 徳子

立教大学経営学部教育研究コーディネーター。元株式会社カタログハウス取締役エコひいき事業部長。2009年度から2014年まで高木基金選考委員。2015年5月から高木基金理事。

 「高木仁三郎市民科学基金10年のあゆみ」の編纂から、あっという間に5年が経過しました。「10年のあゆみ」編纂から5ヵ月後の3月11日、東北大震災による福島原発事故が発生。それまでの価値観をすべて覆したかのようにみえました。高木基金には一般市民から多くの助言を求める声と同時に多額の寄付金が寄せられ、各地で立ち上がった市民放射能測定室の支援、その後の原子力市民委員会の設立と、信頼のおける市民科学者を束ねる組織として、大きな貢献ができたといえると思います。持続可能な社会を支えるエネルギーシフトの道筋が、あまりにも大きな犠牲のうえにではありますが、やっと緒に就いた感がありました。今やそれが音を立てて揺り戻し、政府による原発再稼働がはじまりつつあります。憤りをおぼえると同時に、何も行動できていない自分に情けなさを実感しています。
 私自身は当時、東北大学生命科学研究科に所属し、仙台で被災しました。運良く翌日には東京の自宅に戻ることができましたが、テレビの前で呆然となす術もなく、同僚と学生、知人の無事を祈るばかりでした。東北大では生態適応グローバルCOEというプロジェクトの特任として、社会的責任学を教え、産学連携コンソーシアムの運営に当たっていました。震災からほぼ1ヵ月後に沿岸の被災地視察を行い、自然の力を活かしたグリーン復興プロジェクトを立ち上げ、巨大堤防の見直しなど、東北大生態適応センターがコアとなり数々の提言を行ってきましたが、ご存知の通り、環境も社会も経済も無視した根拠のない計画に基づき、着々と自然が壊されていきます。
 原発問題、ダム問題、化学物質問題しかり、現時点は市民科学にとって暗雲が立ちこめていると行っても過言ではありません。持続可能な社会にむけて、高木基金のベースとなる志ある科学者が今こそ必要なときはないでしょう。ないものねだりをしているだけでは仕方がありません。大学内にも公的研究機関内にも心ある科学者はいるはずです。産業界にも目先の利益だけを追求する経営者ばかりではないはずです。彼ら、彼女らをどう巻き込んで行くかが、喫緊の課題だと思っています。地域の特有の課題もありますが、高木基金として今後の10年を考える今、市民が憂慮する問題の整理を行い、分野を融合した解決策を導く事ができ、力を貸してくれそうな科学者をリストアップして一人一人口説いていく作業が必要ではないでしょうか。反発する相手にも助言を求めるかたちで、「持続可能な社会のモデルが機能するための4つのシステム条件」(下表)を示し、お互いに共通する最低限のビジョンを共に作り上げるという国際NGOナチュラル・ステップのフレームワークが参考になると思います。単なる理想主義ととらえられることも多く、なかなか現実面では難しいかもしれませんが、トライする価値はあると思います。


システム条件1 地殻に由来する物資の濃度が自然界において十分低いレベルで安定していること
システム条件2 社会の生産活動に由来する物質の濃度自然界で十分に低いこと
システム条件3 自然の循環と多様性を支える物理的基礎が守られていること
システム条件4 効率的な資源利用と公正な資源分配が行われていること

カール=ヘンリク・ローベル(1996)『ナチュラル・ステップ――スウェーデンにおける人と企業の環境教育――』新評論 pp.90-100
なお、ここでいう自然界は、基本的に地上が想定されている。


 昨今の明るい話題はSEALDsに代表される若者の台頭ではないでしょうか。社会科学の分野は客観的な判断が難しいものの、グローバルな社会に生きて行かなくてはならない若者達の試みとして、おおいに我々大人が学ぶ点もあると感じました。次世代の市民科学者を育てる事が究極の目的である高木基金として、高齢化する主要メンバー、NPO第一次世代が身体をはって、若者に嫌がられながらも、いつまでもはびこる覚悟が必要かもしれません。原子力資料情報室は少ない人数であまりにも多くの重要な案件に振り回されているように見受けられます。助成金の対象からはずし、コアの活動として別途、予算組みをすべきではないかと思います。



進む軍学共同研究にちなんで                                   理事 藤井 石根

明治大学名誉教授。専門は熱工学。自然エネルギーの利用・普及にも造詣が深い。2003年9月より高木基金理事。

 いま日本では急速に「軍学共同」が進みつつある。そのきっかけは2015年に防衛省が「安全保障技術研究推進制度」という競争的資金制度の応募を大学などの研究機関に求めたことに始まっている。来年度(2017年度)は北海道大学などの10件に及ぶ研究課題が採択され、すでに公表された。これまで「軍事目的の研究は行わない」としてきた日本学術会議でさえ現会長である大西隆氏が「個別的自衛権のための基礎的な研究開発は許容されるべきではないか」との私見を述べたことが契機となって「安全保障と学術に関する検討委員会」が発足している。しかし実際の問題としてその研究が個別的自衛権のためか否かの判断はできないし口実にすぎない。むしろ学術の分野にまでこうした風潮が及んできたことに、これまでの大戦で洋の東西を問わず科学者が軍学共同に巻き込まれていった歴史を振り返るとき大きな危惧の念を抱かざるを得ない。
 元来、科学技術なるものはそれ自体、往々にして「両刃の剣」的な色彩を帯びている存在と私は理解している。それでも科学技術の進歩・進展が歓迎され社会に受け入れられてきた背景にはその有用な側面への期待が強くあるからであろう。半面、危険な面や厄介な面などマイナス面についてはあまり議論されてこなかったし明らかにすることさえも躊躇されてきた。もっとも研究者にしてみれば社会に役立つ有用な面や新しさに目が奪われ過ぎてマイナス面への配慮に鈍感になりがちであろう。しかも研究しようとする課題に社会的な意義や価値が見出せなければ研究意欲も高まらないのも必然と言えなくもない。その一方で同じ研究成果であってもその果実をどう使うかによって、世に益をもたらしたり害をもたらしたりもする。こうなれば世に害悪をもたらす責任は一概にその研究開発者にあると言えないが、はじめから軍事目的の研究と位置付けられた上での研究となれば話が違ってこよう。このたびの防衛省による軍学共同研究に参画した研究者らはその辺をどう理解し納得しておられるものか知りたいところでもある。
 ちなみにナチス時代の戦争犯罪に関して、当時の科学者たちは「自分たちには責任がない。なぜなら自分たちは科学が進歩することのみを追求しており、非政治的にふるまったのだから」という意識を持っていたのではないかと池内了名古屋大学名誉教授は「科学者と戦争」と題した著書で指摘しておられる。しかしこのような言い訳がこれからも通用するだろうか。
 かつてアメリカの科学者、オーエン教授は軍事費を使って敵対する相手を殺戮することだけが目的の中性子爆弾なる兵器を開発したが、いったい彼はどのような思いを持ってこの開発に携わったのか。そこには誇りがあったのか、後ろめたさなど感じないものなのか等、往時いろいろ想像していたことを思い出した。それにしても似たような状況が日本にも現実味を帯びてきたことに驚かされる。
 近年、日本の国公立大学や研究機関も独立行政法人組織に改編させられて研究環境も以前と大きく変貌している。研究者はより多くの研究業績を挙げることを目標に競争を強いられ、研究費は概ね研究成果の程に応じて配分されると聞く。足りない分は自分で調達といった調子では研究費の出所などあまり気にしていられない。これが実のところだろう。防衛省はこの辺の弱みをうまく利用して軍事関連の研究を進めようとしている。容易に想像できようが当然、こうした資金を活用できる研究課題は直接的、間接的を問わず軍事・防衛関係で、その産業も含めて役立ちそうな内容のものが主流であろう。間違っても高木基金からの研究助成金を求めて応募してくるような研究内容のものはあり得ない。無論、防衛省関係の研究助成に限らず文科省や企業からの研究助成にしても対象は故高木仁三郎さんが形容していた「灰色の領域」では決してない。資源・エネルギー状況や環境劣化の度合いがこれほどまでに深刻化しても社会はいまだそれに積極的に対処しようとする状態に至っていない。その意味で高木基金は稀有な存在である。
 この原稿をしたためている今日、8月15日は終戦の日、戦争に対する負の側面がいろいろと去来してくる中で「戦争は最大の環境破壊行為で、敵・味方の区別なく人々の命や日々の暮らしを根こそぎ奪い去っていく」との思いも脳裏をかすめる。
 すでに述べたように日本でも軍学共同が進もうとしているとき、科学者たちは科学的興味が高まればその社会的な意味を考えずに研究に夢中になることもあろうが、どうか社会的な自覚も持つよう強く望みたい。



鳥たちの目覚めは、いかなる物語を紡ぐか?                          理事 細川 弘明

京都精華大学人文学部教授。2001年度から2004年度まで高木基金選考委員。2008年6月から高木基金理事。原子力市民委員会事務局長を兼務。

 筆者は、基金創設から4年間は選考委員を、また最近9年間は理事をつとめてきた。高木仁三郎(仁さん)が構想した「市民科学者のインキュベータ」(孵化器)としての市民科学基金という位置づけと課題については、基金10周年の記念冊子『10年のあゆみ』に述べたので、ここでは繰り返さない。基本認識は変わっておらず、果たしえぬ課題がまだ多いことも残念ながら変わっていない。とまれ、孵化器はたゆまず稼働し、多くの雛たち、鳥たちの営みを、さまざまな場所で見ることができるのは役員冥利に尽きる。
 十周年の集いと冊子から半年後、東日本大震災が起き、仁さんが描き恐れていたほとんどその通りのシナリオで原発のメルトダウンが進行した。三基ですんだのは、まだしも幸運と言うべきかも知れない。仁さんも、さすがに十数基の同時溶融というイメージまでは描いていなかったように思うが、どうだろうか。グレゴリー・ヤツコ(米国原子力規制委員会の元委員長)は、原発事故は常に思いもよらぬ形で起きる、次に起こる事故も全く新しいパターンで起きるだろう、と警告するが、それは『巨大事故の時代』(叢書「死の文化」6、弘文堂)で仁さんが指摘したことでもあった。
 3・11の激震は、ややルーティーン化した業務のなかで理想を語る日々を送っていた感のある基金理事会をも激しく揺さぶった。緊急助成プログラムの発動、原子力市民委員会の始動、委託研究プロジェクトなど、「ここで動かねば何のための市民科学基金か」との河合理事長の檄のもと、多面的な事業を展開してきた。事務局にとっては、身を粉にする度合いが増すことにもなった。スタッフの皆さんにあらためて感謝を申しあげたい。
 いきおい、原発事故、原発立地問題、核被害にかかわる助成案件が以前にも増して多くなったため、やっぱり高木基金は原発中心なんですよね、との声が(肯定的にも否定的にも)しばしば聞かれる。理事会や選考委員会でも、そのことについては度々議論され、意見が別れる面もある。この15年間の助成先リストを御覧いただければ、必ずしも原発一色でないことは見てとれると思う。
 市民科学の主体は誰か、職業科学者の関わりのあり方は、そもそも「市民」とは? 一連のファンダメンタルな問いに、単一の正答は無いのだろうが、これらを自問しつつ、現場での実践を重ね、思考を深めていくのが、仁さん自身のスタイルでもあったし、雛であれ鳥であれ、市民科学者に求められることなのだろうと思う。
 市民科学的調査の主体となるのは(また、それ以前に、問題に気づき、提起する主体となるのは)、被害当事者であったり、渦中の現地住民であったり、市井の支援者であったり、職業科学者(やその卵)であったり、行政職の方であったりする。これら多様な主体の対話と連携を模索することが、市民科学の物語にとって不可欠の要素だ。連携というと聞こえはよいが、被害や不安を押し付けられる現地住民や少数の当事者にとって、大都市の「市民」や多数者は加害者でもあり、のっぴきならぬ対立がそこに孕まれる。仁さんの思想がそうした構図との格闘を通じて形成されたことを、今あらためて思う。
 ところで、高木基金の助成事業の一部門として「アジア枠」がある。アジアといっても、太平洋地域、シベリア、中東も含めて、広い範囲からの応募および採択実績がある。かかる部門を特設したのは、仁さん自身の当初の設計によるのだが、日本が「市民科学」の先進国だからアジアにも輸出しよう、という発想でなかったことだけは確かである。実際、高木基金アジア枠で助成してきた案件の数々からは学ばされることが多く、御用科学や強者の道具としての科学≠ナはない実践を考えるヒントに満ちている。】筆者の推測だが、仁さんがノーニュークス・アジア・フォーラム(NNAF)に関わり、アジア各地の反原発住民運動や土地環境を守り闘い続ける人々と直接交流したことが、高木基金に「アジア枠」を設けるという構想に大きく作用したのではないか。(ノーニュクス・アジア・フォーラムの歴史と精神については、昨年刊行された創史社『原発をとめるアジアの人びと』を参照されたい)。
 ちなみに、前回冊子に寄せた拙文の標題「職業科学者の卵は孵化器のなかで市民科学者の夢を見るか?」は、もちろんフィリップ・K・ディックのもじりであった。今回の拙文では、お気づきの方もあろうが、オリヴィエ・メシアンの名曲のタイトルを借用した。筆者の偏愛する作家と作曲家である。「シベリウス、フォーレにはつき合えます。エルガー、メシアンはダメだな。性格かな。年齢かな」と言っていた仁さん(2000年7月27日付、私信)は苦笑するかもしれない。ディックの描くディストピアを仁さんがはたしてどう見ていたか、聞きもらしたのは心残りである。



助成選考過程に関わって思うこと                                 理事 山下 博美

立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部准教授。2010年度から2015年度まで高木基金選考委員(2010-11年度は公募選考委員)。2016年5月より高木基金理事。

 これまで6年にわたり、高木仁三郎市民科学基金において選考委員をさせて頂いたが、つくづく感じることは、全国・アジアから応募される方々の熱意だ。そしてその熱意に丁寧に答えようとする事務局の方々の大変な働きぶりである。
 各地で活躍されている市民の想い一つひとつは、しばしばその人たちの人生とも重なり、大変熱いものがある。そのような方々を応援する高木基金であるが、申請者からすれば、たぶん(きっと)大変な助成金!であろう。
 申請書による選考は、どの助成金審査でもあることだが、まず、その審査過程で書類に目を通す人の数が多い。選考委員が読むものを分担せず、全員が目を通しているため、委員会では細かな内容について議論が起こることもしばしば。理事の方も書類に目を通されるので、一つ一つの申請書にのべ多く時間が費やされる。
 そして、比較的助成額が小さいにも関わらず、書類審査を通り助成金受給の候補になれば、「公開プレゼンテーション」で発表を行わなければならない。ここでは、書類を既に読んでいる選考委員・理事のみでなく、高木基金の支援者や一般の方が参加されているため、その人たちにも短い時間で、自身の研究の背景、助成金をもらった際の使い道、その有効性、将来の展望など、筋道を通して発信することが求められる。又、会場からの質問や研究内容改定アイデアなどにも答えたり、よいと思われるものは計画に取り入れたりすることも望まれる。
 無事採択が決まっても調査研究や研修終了後には、再び「成果発表会」として公開での発表が待っている。その際に、きちんと助成金の使い道や行った内容が示せなければ、再び応募する際にそれが評価の出発点になってしまう(発表される方々は本当に緊張されていることでしょう!)。その後の報告書の一部もウェブで公開となり、自身の活動の宣伝にもなりながらも、支援者からの目にさらされてしまう。
 私自身も他団体に研究費申請をすることはあるが、このように何度も自らの研究の振り返りを迫られ、それを市民や委員と一緒に精査していく過程がある助成金は、大変珍しいのではないだろうか。これが高木基金の透明性の特徴であり、基金や受給者が社会と繋がる仕組みなのであるが、その分、受給者や事務局の方々の仕事は大変だ。
 私自身の反省すべき点は、「公開プレゼン」等での会場での質問が、時に少し厳しく聞こえてしまった時もあるかもしれないことである。要点説明が明確にできない時もあった。助成金受給者の方々の熱心なご活動には、もちろん心から敬意を表している。それとは別に、選考した立場としては、どうしてもその受給者の方々の後ろに、たくさんの落選団体の姿や、研究内容の記載はいま一歩であったが、高木基金を通して一歩を踏み出したかった人たちの熱い思いが見えてしまうのだ。そのため助成を受け取る団体には、落ちた方に「この案件が通って自分達が落ちたのなら当たり前だな」と思ってもらえるような実のある研究、納得のいく発展をぜひ行ってほしいと強く願ってしまう。
 また、高木基金自体が多くの方々のご寄付や、高木仁三郎さんをはじめ、お亡くなりになった方からの遺贈で成り立っていることからも、生きている方々に期待が大きくかかる仕組みになっているのかもしれない。
 様々な点で、選考過程において負担がかかることもあるかとは思うが、このような選考プロセスの中で、自分自身の考えが精査され、目標が定まり、助成金受領後の活動に大変役に立ったという声も聞かれる。
 ぜひこの「ややこしい」プロセスのある高木基金の助成事業にどんどん挑戦頂き、全国から実践者が集まり忌憚ない意見をくれる場、発表後の励ましやアドバイスを得られる場、新しい仲間やライバルと出会う場、分かりやすく明確に展望を伝える練習場、を楽しんで頂ければと切に願う。
 そして助成金に申請されない方も、半日や一日で全国の環境・市民科学分野の動きが一気にわかる「公開プレゼンテーション」や「成果発表会」に気軽に足をお運び頂きたい。


高木基金が今後手がけてもよいだろう4つのこと                     選考委員 上田 昌文

特定非営利活動法人市民科学研究室代表。2013年度から高木基金選考委員。

 私はここ3年ほど選考委員を務めてきました。科学技術が広く深く私たちの生活に浸透し、そのことと相まって新たな問題が次々と生じるなかで、「市民科学」の必要性はますます高まっていると思いますし、高木基金がその普及に大きく貢献をしてきたことは誰もが認めるところでしょう。選考や支援のあり方を「市民科学」の普及や強化に照らして、どう改善していくかは、支援を受けた方々からの報告もふまえて、多くの役員や委員の方々が論じるでしょうから、私は普段から「市民科学」を標榜してNPO活動をしている者として、少し違った観点から述べてみます。高木基金が今後手がけてみるとよいのではないかと思われることを4つ挙げてみました。

(1)現在の大学は「自主独立の学問の府」からますます遠ざかろうとしているように見える。市民科学的研究など、とりわけ自然科学系の研究者らには、いよいよ望み難くなっている。大学自体にこうした状況を変革していく力はほぼない、と言える。しかし、現状は科学をなすための人材も資産も、多くは大学にあり、それを無視しては市民科学も先細りとなるだろう。そこで求められる一つの方向は、市民科学的課題に市民科学的アプローチで挑むことを、大学の研究者に奨励することだ。とりわけNPO(などの民間の活動団体)との共同研究を仕組んでいけるようにして、科研費、NPO独自資金、高木基金助成などを柔軟に組み合わせて使えるようにするとよい。大学研究者の側とNPOの側の双方にとって、それぞれ単独ではなし得ない深みと厚みを調査研究に持たせるべく、緊密な連携を築くことが大切であろう。

(2)市民科学的課題は、核・原子力、エネルギー、環境の領域にとどまらない。生命操作、防災、住宅・建築、食、ITや人工知能、軍事、種々の公共開発事業、科学技術政策、科学教育……と非常に多岐にわたる。問題が萌芽的だったり顕在化していなかったりするために、明確な調査研究として組み上げることができていない領域も少なくない。「今、市民科学的調査や解決が求められる問題は何か」を自由な議論によって、見定めていく機会があってよいのではないだろうか。また、様々な研究者や様々な民間団体によってなされる調査のうち、市民科学的調査として高い意義を有するものを、年間に数件でも顕彰していくこともあってよいだろう。

(3)高木基金が助成した案件のうち、振り返ってみて社会的にそれなりに大きな成果を生んでいると判断できるもののいくつかをとりあげて、その調査研究の組み方、進め方、まとめ方……といった「成功」のノウハウを抽出し、整理していくことができれば、今後の応募する団体・個人にとって有用だろう。これは「市民科学」の方法論を鍛えていくうえでも必要な作業だと思われる。

(4)科学技術に関連する政策的な問題では、その問題の内容にそれなりに高度な科学技術の知識が含まれる。それがために、悲しいかな、自治体の議員や行政担当者と中央省庁の担当部署の間では、問題そのもの理解や政策の争点化の能力の懸隔はあまりにも大きい。自治体が政策施行の現場となっているにもかかわらず、政策の当否の判断をほとんどなし得ないまま、「上から降りてくるままに」事が進むと言ってよい(例:この10月から実施される「0歳児を対象にしたB型肝炎の予防接種」)。被害や損害が生じる前に、そうした専門知を要する政策の是非の判断を、政策形成・決定に与る者の間で的確になし得るようにすることが、今後の市民科学の重要な役目の一つであろう。すなわち、高木基金においては、志ある自治体の議員や行政関係者らの要請を受けて、関連する専門知の活用を広く研究者らに訴え、政策決定に影響を与える組織だった活動に支援をする、ということが考えられる。


15周年公開フォーラムへのコメント                              選考委員 小澤 祥司

環境ジャーナリスト、飯舘村放射能エコロジー研究会共同世話人。2015年度から高木基金選考委員。

 私自身は研究者ではありませんが、これまで自然環境や環境保全、エネルギー問題などに関して、市民の立場から調査に参加したり調査のコーディネートを行ったりしてきました。福島県飯舘村のバイオマスエネルギー導入に3・11以前から関わっていたことから、日本大学の糸長浩司教授らと事故直後から村の支援活動を行い、2週間後には京都大学原子炉実験所の今中哲二助教(現・研究員)らと汚染状況調査に入りました。調査はその後定期的に続けており、また村民の避難状況などの聞き取りなども実施するとともに、村をフィールドとする研究者の手伝いなども行ってきました。
 そうした経験の中で、自然や環境に関わる分野では、専門研究者と市民の連携や共同作業は欠かせないものと考えています。90年代から続いている、トウキョウサンショウウオの生息状況調査では、広範な市民が参加して生息地を踏査し、その情報を研究者が整理解析するという形でデータを蓄積し、情報発信も研究者と市民双方の協力のもとで行っています。こうした調査活動は、研究者だけではなし得ないものですし、一方で専門的な知識や調査分析手法を持たない市民だけでできるものでもないと考えます。そもそも問題の所在に気づくことは市民の側に多いわけで、研究者と市民との広範なコラボレーションは、市民科学というものを考えるときに重要なことだと思っています。飯舘村など放射能汚染地では、多くの研究者が放射能の生物影響調査を実施しており、いくつかの調査には私自身もお手伝いをさせていただきましたが、これもまた研究者にとっては大変な作業であり、より多くのサンプルを集めるためには市民参加という手法をとることが有効であろうと感じています。
 こうした調査活動を通じ市民の側は科学的な知識や経験を得ることができますし、問題についての啓蒙や深化も期待できるのではないかと思っています。高木基金の役割として、市民の側からの問題意識を専門家と結びつける役割も重要かと思っています。
 私も世話人として糸長氏、今中氏らとともに立ち上げた飯舘村放射能エコロジー研究会(IISORA、鈴木譲選考委員にも参加していただいています)は自然科学、社会科学の研究者だけでなく、ジャーナリストや市民、村民も参加したかたちでの広汎なプラットフォームであり、まさに市民科学の実践の場として機能するようになってきていると思っています。市民科学という言葉に明確な定義があるわけではありませんが、さまざまな専門研究者が市民とともに作り上げる科学が、これまでの経験から私の中に出来上がった市民科学のイメージです。
 私自身は理系出身ではありますが、これまであまり「サイエンティフィク」という言葉をよく理解していませんでした。今回、IISORAの活動で研究者の方々とご一緒させていただいて、科学的なものの見方や手法についてだけでなく、多くの気づきがありました。逆に研究者の皆さんも、汚染地を訪れ被害住民とともに活動する中で少なからぬ気づきがあり、研究のヒントを得られたのではないかと思っています。


現場に立つ                                             選考委員 鈴木 譲

元東京大学大学院農学生命科学研究科教授。2012年度から高木基金選考委員(2012-13年度は公募選考委員)。

 東大水産学科の教員ではあっても水産の現場とは程遠い魚類免疫学という基礎研究に携わっていた私にとって、海上保安官として、東京都公害局職員として公害と闘ってきた田尻宗昭さんの「現場が大事だ、現場に行け」という言葉は胸に突き刺さった。それから数年たった1988年、現場が勝手に押しかけてきた。自宅近くに計画された道路建設事業の環境影響評価書のでたらめさに腹を立てた私は、反対運動に引き込まれ、ついには中心人物に祭り上げられてしまったのである。亡くなる前年(1999年)の高木仁三郎さんに一度だけお会いした時もまだこの闘いの最中で、建設中止を求めた行政訴訟に対する最高裁の敗訴判決が出る直前だった。高木さんから癌と告げられた衝撃でその時どんな話をしたかは覚えていないが、職を投げ打って自分の専門領域で市民科学に取り組んできた高木さんを前にして、道路問題で活動してはいても専門外のいわば安全地帯にいた私は気後れするばかりであった。もっと早く出会っておきたかったし、長生きもしていただきたかった。
 敗訴の翌年、2000年には浜名湖にある附属水産実験所の教授に昇任したことから道路問題に十分力を入れられなくなり、2004年には事実上の運動終結を宣言した。浜名湖では充実した研究生活を送ることができたが、定年を迎えればこの研究環境を失う。それならいっそ研究とは縁を切り、科学的知識を市民のために役立てようと考えていたところに高木基金からの案内に接し、2012年の秋から公募の選考委員に就任した。
 退職直後の2013年5月、福島のため池でコイの免疫系を調べれば放射線の影響を適切に評価できるのではないかと気づき、遅ればせながら自己資金で自由気ままな調査活動を始めた。各地の小さなため池でコイを釣り上げて、放射性セシウム量と血液や免疫系組織の検査結果とを比較することにより被曝の影響を明らかにしようとするというのが調査の骨子である。魚類免疫のプロとして自信を持って調査に臨んだが、悪戦苦闘が続いている。高木さんには遠く及ばないが、ようやく本業の専門知識を現場に活かす機会を得たのだから簡単にあきらめるわけにはいかない。気力、体力が続く限り現場に立って追求していきたいと思っている。
 選考委員として応募書類を見て行くと、苦しい立場におちいった多く市民が科学をよりどころに現場で闘おうとする姿が浮かび上がってくる。しかし、現場に向き合っているように感じられない申請や、科学としての質が十分とはいえない申請もあって、歯がゆい思いをさせられる。選考委員の役割は国の科学研究費補助金のように応募課題をふるいにかけるだけではすまないはずだ。不採択となった課題でも、工夫次第で優れた研究になるのなら厳しい意見も積極的に述べて手助けをする役割を果たしたいと思う。私自身、放射線影響調査の過程で福島の現場を中心に多くの市民団体との交流が生まれたが、科学的な側面からそうした団体を支援して行くことにはやりがいを感じる。高木基金として助成以外の形で市民科学を支援する場を設けることができないだろうか。
 福島第一原発の事故は、良心を捨てて権力者に迎合する科学者の存在を広く世に知らしめることとなった。現場にはそうした似非科学者との対決を余儀なくされている多くの市民がいる。権力の横暴に抵抗する市民が科学的な力をつける手助けをするのが高木基金の使命である。プロによる研究でも素人の科学的な活動でも構わないが、観念的なものではなく、直接現場に立って、あるいは現場に寄り添ってなされる活動を様々な形で応援したい。現場の活動への支援を広げるために、高木基金がさらに大きく発展して行くことを願って止まない。


市民科学との出会いと期待                                選考委員 吉森 弘子

元生活協同組合パルシステム東京理事長。2014年度から高木基金選考委員(2014-15年度は公募選考委員)。

 私が「市民科学」という言葉に初めて出会ったのは、生協で購入した高木仁三郎さんの『いま自然をどうみるか』という本だったと思います。その頃、生協で野菜や牛乳、お肉などといっしょに、好みの絵本や興味深い本を配達してもらうことは、子育て中の私の小さな楽しみでもありました。しかし、当時はなかなか本とじっくり向き合うこともできず、読み流していたと思います。
 もう一度、この本を読み返したのは、2007年頃だったでしょうか。六ヶ所村再処理工場の本格稼働に向けた動きの中でした。関わっていた生協の役員として、組織としてこの問題にどう向き合っていくかを考えるためには、原発って何だろう、再処理って何だろうから始まり、それまでの日本のエネルギー政策について学び、検証することから始めなければなりませんでした。京都大学の小出先生においでいただいてお話を伺ったり、経産省、原子力機構の方から説明をお聞きしたり、その結果として、再処理工場の本格稼働の中止を求める署名活動に取り組むことを決めました。
 その過程では、縦横な思索が求められました。西洋と東洋の自然観の違いや科学の暴走など、考えることはたくさんありました。仁三郎さんの本を改めて手にとり、読み進めていくうちに確信したのは、市民科学というものは人間の傲慢さや科学の暴走を自制するために生まれたものだということでした。そして、2011年の大震災と原発事故。エネルギー政策も含めて、人と人、人と自然が共生する社会をめざして、日本は大きく変わるはずでした。ところが、あれから5年半が経とうとしている今、国の方針は旧態依然としたものに逆行しています。この夏、また私たちは抗議の声の中での原発再稼働を目の当たりにしなくてはなりませんでした。世論調査では、国民の過半数が原発再稼働には反対というデータもあります。またしても声の届かない無念さとともに、やはり何としても、もっと市民が学び、力をつけなければと思います。
 ここであきらめてはいけないと、多くの市民が考え、行動しています。私も、毎週金曜夕方には、地元の仲間と近くの駅頭で「原発いらない」のアピールを続けています。先週で、すでに142回を迎えました。「頑張ってね」と声をかけられることはあっても、冷たい目で見られたことはありません。時代は大きく動いています。
 市民感覚の草の根運動を「国を動かす力」にしていくためには、信頼できるデータや学術的、技術的なサポートも含めて、多分野にわたる良識ある専門家の力を得ることが必要です。ただ反対するだけでなく、対案や別の選択肢を提示する、可能性や実現性を検証する。高木基金の15年は、そういう地道な研究助成や人材育成、市民連携の道程にとって大きな力そして励ましとなってきたのではないでしょうか。もちろん、未来を見据えた基金を表や裏で支えてこられた多くの人々の力も大きいと思います。
 現代社会には、原子力だけではなく、農薬や化学物質、地球温暖化、遺伝子組み換え、さらにはゲノム編集など、さまざまな社会矛盾を孕む課題が後を絶ちません。それを考えると、市民科学は終わりのない運動に違いありません。新しい技術は、いつの時代も実験に取り組む人たちにとってはオモチャのように面白いもののようです。研究室の中では、先進的とされる技術開発が一般には知られないまま進められていることも多そうです。あるべき姿は、新たな技術開発などを市民も知り、学び、共通理解の上で開かれた論議を重ねて、共通認識や実効性のある規制をつくることだと思います。もちろんその時には、国や社会を構成する人、そして人々としての節度や倫理感、知性、感性が問われます。アジア枠の選考では、いわゆる先進国が「開発」という名目で、現地の伝統や文化、環境などに打撃的な影響を与え続けている事例の多さに大きな戸惑いを感じました。このような「開発」という名前の「支配」は、隠れて目立たないかもしれませんが、政治主導、経済優先でアジアをはじめとした途上国に原発や武器を売りつけるような行為と、さして違いはなさそうです。
 ここに来て、日本学術会議でも、防衛省の予算を念頭に、戦後維持してきた「軍事目的の科学研究の否定」を再検討する動きが始まったと報道されています。これまでも、原爆や枯葉剤を含めてさまざまな技術開発が、戦争のための産学連携の軍事研究から生まれてきたことが知られています。一方、高木基金がめざす市民科学は、これまで同様にこれからも、平和を志向する国民的運動の軸となり、新たな時代に向き合っていくのではないでしょうか。2014年9月から選考委員として関わる中では、そういった夢や願いを形にしていくための志から生まれた挑戦的な取り組みに、数多く触れることができました。私は専門家ではありませんが、他の選考委員の皆さんとの集団的な選考を通して学ばせていただきながら、市民が未来を託することのできるプロジェクトが社会に貢献していく姿や、将来性のある研究者が市民の不安に寄り添いつつ地域の中で育っていく姿を、見守っていきたいと思います。



「市民科学」の成長、今後の役割                                顧問 小野 有五

北星学園大学経済学部教授、北海道大学名誉教授。2002年度から2007年度まで高木基金選考委員。2008年度から高木基金顧問。

 高木基金の活動の意味は、仁三郎さんが言い出した「市民科学」、「市民科学者」という考え方を現実のものとして育てていくことにあったと思います。15年間という時間は、その成果を検証するには、まだ短すぎるともいえるかもしれませんが、そのあいだに福島第一原発事故があったことで、「市民科学」は逆に大きく成長するきっかけを得たような気もします。日本で初めて起きたレベル7の原発事故は、原発周辺だけでなく、東日本・北日本全体に深刻な影響をもたらし、放射性物質による汚染被害と、新たな原発事故を防ぐために、住民自らが考え、行動しなければならないという状況を作り出しました。そのなかで、住民が科学する、という「市民科学」が、これまでとは比較にならないくらい多くの場所で、さまざまな人達によってつくられ、生み出されてきたように思います。2011年~12年以降の高木基金は、これらの動きに迅速に対応し、新たに生まれた動きをさらに大きく広げる手助けをしてきたと思います。
 いっぽうで、福島原発事故は、それを阻止できなかったこれまでの科学や科学者のあり方に大きな疑問を投げかけ、科学や科学者への不信を決定的なものにしました。科学者は社会とは無関係ではありえず、社会や政策決定に対してどのような態度をとるかということを科学者は厳しく問われることになったのです。科学者は、ただ自らの知的好奇心の赴くままに研究に没頭していればよい、という素朴な科学者観は、もはや成り立たなくなったとも言えると思います。科学と社会の関係を研究してきたピルケは、2007年に、科学者が政策決定に対してとる態度によって、科学者を図1のように4つの類型に区分しました(Pielke、2007)。左側のリニア・モデルは、従来の科学者のように、政策決定や社会に対しては関心をもたず、ただ研究だけにいそしんでいる科学者のタイプです。そのなかで、上は、純粋に研究だけをしている科学者、下は、審議会などから求められれば意見を出す、といった受動的な態度で政策決定に関わる科学者を指します。

図1 ピルケによる科学者の四類型区分(小野、2016)

 いっぽう右半分は、反対に、自らがステイクホルダー(利害関係者)として政策決定に介入しようとする科学者です。上は、自らの研究にもとづき明確な主張を行う科学者、下は、自らの研究にもとづく点は同じですが、自らの主張にこだわらず、相対立するさまざまな見解を社会や政策決定者に紹介し、そこでの議論や検討を助けようとする科学者です。「市民科学者」が、右の2つにあたることは明らかでしょう。図2は、原発問題や高レベル核廃棄物の地層処分問題での私自身の立ち位置の変化を示したものです。最初はただ面白くて地形や活断層の研究だけしていた私が、高木仁三郎さんの影響を受けながら、社会や政策決定に介入する市民科学者になっていったことを、この図は示しています。

図2 原発や高レベル核廃棄物の地層処分問題に関する
筆者の立ち位置の変化をピルケの区分図にプロットしたもの(小野、2016)

 ピルケは、左側の科学者を否定しているわけではありません。すべてのタイプの科学者が、社会の中でバランスよくいることが重要なのです。しかし、現実には、圧倒的に左側の科学者が多く、また右側では、自らの主張だけを声高に行う論点主張者だけが多いことが問題だ、とピルケは述べています。市民科学者としては、危険な原発を止めたり、放射性物質の汚染を抑えることをまず主張したいわけですが、原発や放射能汚染のように、科学的な論争が続いている分野では、透明性をもった議論、公正な検討を行わせるために、市民科学者が、さまざまな見解をとりあげ、社会や政策決定者に示していく役割を果たすこともまた必要になるでしょう。高木基金が実績を重ねていくことで、今はまだ左側にいる科学者が、一人でも多く、右側の立ち位置で行動できる市民科学者に変わっていくことを実現させたいと思います。


行動する基金、次なる課題                                    顧問 大沼 淳一

元愛知県環境調査センター主任研究員。2007年度から2012年度まで高木基金選考委員(2007-08年度は公募選考委員)。2013年度から高木基金顧問。

 私は、大学院生時代に全共闘運動に参加し、大学で行われている研究が人民のためのものではないことを告発し、その闘いが終わった時に市井の人として「人民のための科学者・技術者」として生きる決意をした。以来40数年、環境汚染事件の被害者の立場に立って権力や企業を相手にささやかな戦いを続けてきた。高木仁三郎さんの闘いに共感し選考委員の公募に応じたのは、高木さんが提唱した「市民科学」が私の目指す「人民のための科学」とほぼ重なっていたからである。
 その高木さんが亡くなって、その意志が高木基金として形になり、弱者の闘いを科学で支援する助成団体として数々の実績をあげてきたことは高く評価される。助成金申請書が上手に書けているかどうかではなく、その問題を市民科学の立場から追及する必要があるかどうか、その担い手として申請者がふさわしいかどうかが選考の鍵となるというのも素晴らしい。福島原発事故が起きて市民放射能測定室が多数誕生した時は、高木基金による測定技術向上のための「研究交流会」が継続的に開催された。その研修会から、32測定所が参加する食品の放射能含有量データ検索システムを運用する「みんなのデータサイト」が誕生し、現在は東日本土壌汚染調査プロジェクトが進行中である。政府の原子力政策に対抗し、「脱原発社会への道」をシンクタンクとして提言した原子力市民委員会も高木基金から誕生した。まさに、行動する基金である。
 14回にも及ぶ助成をしてきた「上関の自然を守る会」による生態調査結果は、上関原発建設阻止で大きな成果を上げてきたが、この調査に参加した専門家達を市民(のために働く)科学者として育て上げてきたからこそ上げられた成果である(日本生態学会上関要望書アフターケア委員会編『奇跡の海』(南方新社)参照)。一方、8回の助成をしたにもかかわらず、大きな成果につながっていない「化学物質による大気汚染から健康を守る会」の案件は、揮発性有機化学物質(VOC)の複合汚染であり、最新鋭の分析機器を駆使してなお困難な課題であり、それを市民側の知恵だけで突破するにはあまりにも困難な課題であった。プラスチックを破砕する時に局所的に生起する高温高圧条件下で、有害なVOCが生成するという仮説を提起したことは素晴らしいことであったが、そのことを実証的に裏付けて法的な規制をさせていくにはもう一つ別の力が必要であった。
 大学や公的研究機関の研究者の協力が得られるような、「市民科学者(世のため人のために働く科学者・技術者)プール」を何らかの形で形成する必要を痛切に感じる。筆者自身、まだいくつかの汚染案件に関わっているが、分析や実験をする拠点からリタイヤしてしまうと、重要な武器をなくした戦士のようなものである。多くは政府機関などが測定した資料から瑕疵、矛盾点を探し出して勝負することになるが、現役の研究者との連携が欠かせない。高木基金の次なる課題として具体的な一歩を踏み出したいものである。
 さらに、「市民科学」は市民自身が闘いの中で科学を学び、「市民科学者」になるという側面もある。愛知万博のコンセプトを180度転換させ、会場予定地とされた海上の森を守り、里山保全をこの国に根付かせたのは、こうした市民科学者達だった。名古屋オリンピックに反対し、メインスタジアム予定地とされた平和公園の雑木林を守った人々も、こうした市民科学者だった。この人々が中心となって2015年夏には、名古屋全市165地点において約400名の市民観測者が午前5時から午後8時まで16時間の毎正時同時観測を行い、都市内里山林のクールアイランド効果を実証した。前述の市民放射能測定所などは、まさに素人が専門家にならなければならない状況の中で、必然的に実現し、その誕生を高木基金が応援したことになる。しかし、このことは一般にはそれほど簡単なことではない。思い込みとか、科学の装いを持った一種の神秘主義などがはびこる局面でもある。過去のいくつかの助成先でも、この神秘主義的な思い込みが心配されるものがあった。

 産学協同は当たり前、軍事研究にさえ研究者が殺到するような事態とは、前項でふれた全共闘運動が告発した学問研究体制がさらに構造的に悪化した結果である。小泉改革以来、短いスパンでの成果による業績評価、固定した研究予算の大幅削減、特任研究員という名の非正規雇用研究者の激増などにより、大学における研究体制は荒廃している。若い研究者たちは、目先の小さな成果を上げることに追われて、じっくりと腰を落としたスケールの大きな研究が難しくなっている。まして、世のため人のためとなる研究を貫くことは困難である。こうした状況下では、前項で述べた「市民科学者プール」の形成は以前にもまして難しくなっている。
 大学制度そのものの問題も山積している。多くの西側諸国(あるいはOECD加盟国)では公的大学教育は無料なのに、アメリカと日本だけは有料であり、しかもかなり高額だ。かつて無利子であった奨学金さえもが有利子となって、若い労働者が借金地獄で苦しむといった現象さえもが生まれている。安倍政権になって、人文科学系学部の縮小、無用論まで飛び出す最低の状態となっている。
 このように悲惨な状況において、市民科学の展望を語ることは難しい。しかし、福島原発事故が起きてしまい、政府や御用学者たち、あるいは科学者総体への幻想が崩れた地平にあって、闇夜を照らす燈台としての市民科学の役割は重要さを増している。若手研究者が困難な状況にあって余裕がない現状では、いましばらく古くからの市民科学者の奮闘を期待しなければならないが、日本の政治を覆う黒い雲がいつまでも晴れないわけではないだろう。黒雲が去って自由の風が吹き始める時のために、帆を繕って出帆の準備をしておかなければならない。また、黒雲を退散させるための勢力を支える市民科学セクションとしての役割も重要である。それはつまるところ、高木仁三郎さんが反原発の核化学者として高々と市民科学の旗を揚げた志の継承なのであろう。


「市民科学」と「市民権力」の実現                                顧問 藤原 寿和

化学物質問題市民研究会代表。2007年度から2012年度まで高木基金選考委員。2013年度から高木基金顧問。

 選考委員をお引き受けすることになる以前から、公開プレゼンテーションにはいつ頃からかは覚えていませんが、都合のつく限り積極的に参加をし、学会とは全く異なった発表の場と「専門家」の枠を取っ払った市民目線での徹底議論の場に身を置くことで、自分の行政技術系職員としての「専門性」(テクノクラート性)やそれまでの大学時代に至る過程で身につけてきた「学問」「科学技術」のあり方と生き方を含めて総体を問い直すため、大いに触発を受けてきました。
 私は、大学在籍時代に水俣病患者との出会いから、化学実験室での水銀垂れ流しが当たり前だった当時の研究生活と、チッソ、昭和電工を始め公害企業に、化学工学会の重鎮が何の疑問もなく「教授の顔」で学生の就職を斡旋するあり方に疑問を抱いたことと、当時の医学部に端を発した東大闘争の過程で、国と産業界による公害企業誘致政策を、国家権力が反対農漁民や地域住民を弾圧して推進する国家政策の尖兵として加担してきた東大を頂点とする大学の、特に理工学技術系教育研究のあり方を問うために、また、公害の現場に出かけて農漁民・地域住民と共同した闘いを提起した東大都市工学科の「大学から地域へ」とのスローガンに象徴される地域闘争に参加するため、修士課程の中途で大学を辞めて、駿河湾の反公害住民運動に関わる過程で、浜岡原発1号炉の反対運動に現闘団として取組むことになったことから、高木仁三郎さんの存在を知ることとなりました。
 当時、私自身の生き方を問う一つに、公害を生み出す「ブルジョア」化学を身につけてしまったことに対する自省の念から、漁民と一緒に沖漁に出て原発温排水の影響を漁民の生業の現場から問い直す作業を通じて、「生活者」のための化学の構築を目指さなければならないというのが、私に課した命題でした。これが後に高木さんが提唱した「市民科学」と相通ずることから、高木基金との接点ができました。浜岡原発が最後まで漁業補償交渉に応じなかった御前崎漁協がついに妥結したことで、2年間に渡った漁民との反対運動が終息し、御前崎の下宿先を引き払って東京に戻ってみたところ、1970年代当初の東京はまさに「公害のるつぼ」状態でした。牛込柳町の鉛公害事件、多摩川の合成洗剤・化学物質による人体被害、光化学スモッグ大気汚染被害、日本化学工業による六価クロム鉱さい投棄事件に端を発した市街地土壌汚染・工場内外の労働者・住民のクロム禍事件、アスベスト公害など。
 これらの問題に東京都公害局(当時)職員として地域住民とともに取り組む過程で、当時「革新都政」と言われた美濃部都政下における「公害隠し」や「被害者切り捨て」行政に対する内部(生産点)と公害現場からの闘い、内部告発などを行ってきましたが、大学闘争時代に「大学解体」を叫んできたことと、行政職員として内部から「行政(権力)解体」の必要性を観念的な論議を超えて痛感してきました。東京都在職40年間はその全てを二足のわらじを履きつつ、行政の中にいかに「市民科学」と「市民権力」を構築するかを永続的な課題として、自らに課してきました。
 前置き的な個人史が長くなりましたが、私の高木基金の活動の中でのモチーフは、一貫して、研究助成活動を通じて、「市民科学」と「市民権力」の実現というテーマでした。どこまで達成できたか振り返ると、あまりにも小さな一歩でしかなかったと反省することしきりです。かつては、公開プレゼンテーションの参加者数が多く、議論も活発に行われていたと記憶していますが、昨今は世の中の傾向を反映していると思いますが、低調ではないでしょうか。次の2番目の命題とも関係しますが、この低調傾向を克服することが何よりも必要なことではないかと思います。そのための過去を振り返っての総括と、課題の整理と、社会に向けての発信力が問われているのではないかと思います。
 
 私が大学在籍中に、自衛官の在籍による産官学軍事共同研究が明らかになり、それまで政治課題も含めて無風地帯であった理工学部で、始まって以来の「軍事研究」を問う闘争が行われました。最後は理工学部棟のバリケード封鎖、機動隊導入の情報を目前に撤収することになりましたが、当時の大学を取り巻く文部科学行政の「期待される人間像の育成」のための大学立法をめぐる反対運動と合わせて、理工学部ではまさに学問の現場からの追及が行われました。今では、大学内部からの改革、御用学者の学外への追放・責任追及も、医学界や企業活動に対する反公害・反薬害告発も、ますますファッショ化するマスコミテレビ界内部での闘い等、それぞれの生産点、現場における闘争が弱体化してしまっているのではないかと思います。
 高木基金の活動が活性化するためには、これらの各界(つまり世論)への影響力の行使と各界からの参画を意識的に追求することが必要なのではないかと思います。私が関わっている産廃関係に取組んでいる団体の多くは、なかなか高木基金に関わり切れていないのが実情です。それを支えていける態勢づくりが課題だと思っています。そのための具体的な手法については、これからじっくりと時間をかけて行っていけば良いのではないかと思います(私自身には残された時間的余裕はそれ程ないとは思いますが)。
 以前、高木基金が主催して、課題別(放射能測定室、産廃問題)の交流集会が行われてきましたが、引き続きテーマを拡大して(例えば水銀やアスベスト・PCB・ダイオキシンなどの化学物質汚染やダム等の水源開発など)移動交流集会をその地域の運動団体と共催して開催すること、などの取り組みが行えないでしょうか。また、この交流集会には、地方新聞社などマスコミ関係者にも参加を呼びかけることで、マスコミへの情報の提供と現場での問題点のレクチュアによって、記者の関心を惹起することにもなるかと思いますので、ぜひともご検討いただきたいと思います。


公共政策のための「市民科学」へ                                 顧問 吉岡 斉

九州大学大学院比較社会文化研究院教授。2001年度から2006年度まで高木基金選考委員。2007年度から高木基金顧問。元政府福島原発事故調査委員会委員。原子力市民委員会座長。

 高木基金がNPO法人として発足したのは2001年9月であり、このたび満15周年を迎えることとなった。昔の「元服」に相当する年ごろである。筆者の生まれた富山では、元服する男子は「立山登拝」をする習慣があり、筆者も中学2年生の夏に連れて行ってもらった。奇しくも同じ日に(立山からうっすらと遠望できた)穂高連峰の西穂高岳独標付近で落雷遭難事故があり、松本深志高校の生徒11名が死亡するという悲惨な事故が起きた。ともあれ高木基金を支えてきた1人として高木基金が「よくぞここまで成長してくれたものだ」という思いを新たにしている。また筆者が高木基金を育てる「大家族」のメンバーであったことに誇りを感じている。これを機会に少々思い出と抱負を述べてみたい。
 筆者は高木仁三郎氏と1980年7月20日、『季刊クライシス』編集委員会主催のシンポジウム「科学技術批判と現代文明」で初めて対面した。私は当時26歳の大学院博士課程に籍を置く若者で、「人民のための科学」と総称される世界と日本の活動の分析・評価をひとつの研究テーマとし、このテーマに関する国内外の多くの作品(日本語、英語)を読みあさっていた。そうした大量の読書で得た知識と、核融合研究批判をはじめとする筆者自身の科学技術事業の社会的アセスメントのパイロットスタディーの成果を、シンポジウムのバネリストの1人として開陳することとなったのである。高木氏はパネリストとして横に座っていた。実は『季刊クライシス』第4号特集「科学技術批判と現代文明」執筆依頼と、シンポジウム登壇依頼を、高木氏に対して編集委員会サイドで行ったのは筆者である。また物理学者の藤田祐幸氏(本年7月に逝去された)もフロアの最前列正面に髭面の恐そうな顔で座っていた。
 筆者の発言に対する高木氏のコメントの趣旨は「あなたはしゃれたことを言うが、闘っていない。巨大プロジェクトの内幕の頽廃状況を面白がるのもよいが、その恐ろしさにもっと危機感をもつべきだ」というものだった。藤田氏もフロアから同様のことを発言していたように記憶する。それから36年の歳月が経過し、前者の課題はある程度解消されたが、後者の国家プロジェクトを「上から目線」で馬鹿にする性癖は、あまり直っていないと我ながら思う。しかし改めようとは思わない。
 さて「人民のための科学」について筆者が最も精読したのはもちろん、J.R. Ravetz, Scientific Knowledge and its Social Problems, Oxford University Press, 1969である。筆者は2人の友人(江口高顕氏、須摩春樹氏)を連れて1975年、その翻訳出版の編者となってくれるよう科学史家の中山茂氏に依頼に行き、それぞれの作成したサンプル翻訳文に合格点を頂いて快諾を得た。そして1977年7月に、J.R.ラベッツ著、中山茂監訳『批判的科学 産業化科学の批判のために』(秀潤社)刊行にこぎつけた。その出版を記念して筆者らは、北海道小樽市忍路(おしょろ)にある須摩氏の実家を拠点に、北海道周遊旅行を満喫した。須摩氏の祖父はニシン漁の網元として大いに繁盛したと聞く。この翻訳作業を契機に、中山茂氏とは2014年5月に亡くなられるまでの40年近くにわたり師弟関係を結び、共同研究を重ねることができた。筆者を『季刊クライシス』の編集会議に誘ってくれたのも中山氏である。中山氏自身も筆者との共同研究によって、現代科学技術批判への問題意識を高めていたものと考えられる。
 他に印象に残った作品のひとつは、J. R. Primack, Frank Von Hippel, Advice and Dissent: Scientists in the Political Arena, Basic Books, 1974 である。そこにはアメリカの批判的科学者たちの活動が簡潔に紹介されていた。「憂慮する科学者同盟」Union of Concerned Scientists などの組織についても書かれていた。著者のひとりであるフォン・ヒッペル氏は1937年生まれで、当時はまだ30歳代の少壮理論物理学者だったが、その後、ときには与党的立場から、しかし多くは野党的立場から、核問題に関して調査研究と政策提言を行う実績を積み上げてきた。フォン・ヒッペル氏は1991年にCitizen Scientist と題するアンソロジーをAmerican Institute of Physics から出版した。高木氏の晩年の作品『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999)のタイトルはこれに由来している。「市民科学」というキーワードの生みの親と言えるかも知れない。
 なおフォン・ヒッペルの1974年の作品ではpublic interest science (公共利益の科学)というキーワードが使われていた。筆者はそれを気に入り今日まで愛用している。1997年に総理府原子力委員会の高速増殖炉懇談会に委員として参加したとき、正しい公共政策の評価基準として「公共利益」public interest を掲げた。そして複数の政策選択肢の比較総合評価によって最善の選択肢を選ぶべきという論陣を張ったのである。このアプローチが科学技術批判における重要なイノベーションだと評価してくれた者もいた。我が意を得たりであった。
 従来は「権力者対被害者」という図式に立って、被害者(あるいは科学技術事業が成就した際に被害者となると見込まれる人々)に寄り添う方向で論陣を張るのが批判的科学者のスタンダードだったが、公共利益を被害者の要求よりも上位に置くことが、このアプローチの特徴である。科学技術をめぐる社会的紛争が起こる場合、政府の公共政策が不適切なことが多い。しかし常にそうであるとは限らない。被害者やそれに寄り添う人々の異議申し立てにたとえ「八分、九分」の理があるとしても、公共利益の観点から無条件には肯定できない。そして何が公共利益に適うかを判断するのは、批判的科学者自身であり、誰の権威も借りてはいけない。そして自らの判断について批判的科学者はあらゆる批判に答える責務がある。たしかに現実社会では「二項対立」的な紛争が生じやすく、その中で批判的科学者も濃淡の差はあれ、「どちらの側に就くか」の党派性を帯びることは避けがたいが、やせ我慢をしても独立の立場を堅持すべきである。被害者団体との関係は「不即不離」程度がよいと思っている。
 もちろん筆者のようなアプローチの他にも、被害者の立場から市民自身が科学情報を活用して権力者に異議申し立てをするアプローチや、それに寄り添う「市民運動の御用学者」(藤田祐幸氏がそのように自認していた)のアプローチもあってよいと思うが、そうしたアプローチにおいても「科学的」視点、つまりいかなる利害を背負う者でも否定できない「客観的」命題の確立を目指すべきであり、その命題を提示する者はいかなる種類の厳しい反論に対してもそれをディフェンスする責務があるという視点は、尊重してもらいたいものである。この視点を堅持することこそが「市民科学」が「科学」であるための本質的要件であり、科学上の知識・情報にどれほど精通しているかは本質的ではない。なお「科学的」「客観的」に括弧を付けたのはもちろん、半世紀前までのように単純素朴にこうした概念を使うことができなくなっているからであり、しかもそれに代わる定説的概念が確立していないからである。
 さて、筆者は高木基金10周年記念論集『高木仁三郎市民科学基金10年の歩み』(高木仁三郎市民科学基金、2010年)に寄稿した「初代選考委員長としての6年を振り返る」(21〜23ページ)で述べたように、高木基金の研究助成を立ち上げ、軌道に乗せることに貢献したが、その後は高木基金顧問として「予備役」に入って数年を過ごした。しかし2012年秋になって、多額の寄付金をもとに特別助成事業として「原子力市民委員会」を立ち上げることとなり、その基本理念・組織設計の策定において、発足以来事務局長をつとめられている細川弘明氏とともに中心的役割を果たした。「原子力市民委員会」は、脱原発社会の構築のための情報収集、分析および政策提言を行うとともに、幅広い意見を持つ人々による議論の「場」を提供することを目的とした市民シンクタンクとして2013年4月に正式発足し、約60名のメンバー(研究者、技術者、弁護士、NGO /NPO 職員など)を擁し、今日まで活発な活動を展開している。最低5年以上、できれば10年以上は、この組織を維持する予定である。2014年4月には『原発ゼロ社会への道−市民がつくる原子力政策大綱』を発表し、その後も問題別のスペシャルレポートや声明・提言等を発表し続けている。
 原子力市民委員会の初代座長をつとめられたのは環境社会学者の舩橋晴俊氏だった。筆者は座長代理として舩橋氏とともに原子力市民委員会の組織としてのテイクオフに尽力した。舩橋座長は原子力政策の主要争点について、必ずしも具体論に精通しておられたわけではないが、それでも座長を引き受けてくれたのは、理不尽な原子力政策を変革したいという情熱のたまものだったと思う。そして理不尽な政策を正す「公論形成」を進めることに精根を傾けられた。原子力市民委員会の会議では中高年のメンバーたちが本気で長時間にわたり、白熱した議論を交わすのが常であった。それをみて舩橋さんは「無駄な議論がひとつもない」と、会議が終わるたびに感動を込めて語っておられた。そのように「公論形成」はまさに原子力市民委員会内部での日常の営みであったし、今でもそうである。
 残念なことに舩橋座長は2014年8月、くも膜下出血で66歳で急逝された。筆者は2代目の座長として現在に至る。その基本路線は筆者が今まで述べてきたような「公共利益のための科学」のそれに近いものとなっている。2017年春に『脱原子力政策大綱』の改定版を発表するまでは、この仕事に尽力したいと思っている。しかし筆者も今年8月、63歳となった。そろそろバトンタッチを考えるときである。より若い世代の人々が原子力市民委員会の活動の中核を担い、基本路線の再検討を含めた新たな活動を展開してくれることを期待してやまない。



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